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Shota Maehara's Blog

フス派について―チェコ宗教改革の源流

Posted by Shota Maehara : 8月 15, 2012

フス派は、カトリック司祭ヤン・フスチェコで始めた改革派。フーシテン(ドイツ語:Hussiten)とも呼ばれた。主にチェコとポーランドに勢力を拡大した。

フスは、パンの秘蹟のみならずワインの秘蹟にも民衆が預かる二種聖餐を主張し、また、チェコ語典礼を行い、当時の支配者であるドイツから睨まれ、また教会の腐敗を批判したため、コンスタンツ公会議に喚問され、異端とされた後焚刑にされた。当時のボヘミアはルクセンブルク家に支配され、ドイツ語が強要されるなどした為、ボヘミアにおいてはチェコ人の民族運動としての側面が強かった。

いっぽう、ポーランド王国にもボヘミアに匹敵する規模のポーランド人フス派信者がいた。ボヘミアと異なりポーランドは伝統の自由主義のもと13世紀から制度的にも宗教的寛容が実現していたため、フス派が宗教的理由で迫害されることはなかった。そのためフス戦争の期間も一度に数千人ものチェコ人のフス派が義勇兵としてポーランドの戦争の際ポーランドに味方したり、これまた一度に数千人ものポーランド人のフス派がボヘミアに遠征してチェコのフス派に味方したりと、互いに連帯して敵と戦ったのである。

フス戦争後期には遠征(侵略)も行ったためドイツ民衆には災厄のように恐れられた。また、一部のフス派は強盗団同然に不良化し、フス派の味方であるポーランドでさえも村々を渡り歩いて狼藉をはたらき、ポーランド民衆から疎まれた。

フス派は後に和約が成立し、カトリックに復帰したが、意味合い的にはプロテスタントの先駆けである。

15世紀前半、ボヘミアでのフス派消滅後、チェコ人のフス派信仰者のうちの多くはポーランド南部に大量亡命した。18世紀終盤に「ポーランド分割」によりポーランド王国が滅亡すると、フス派の系統の人々はみな、ポーランドの地を支配する外国による厳しい統治が始まったポーランドからアメリカにわたり、現在もアメリカで広く活動しているモラヴィア兄弟団などが残っている。彼らはワルドー派など諸派を合流させた。ジョン・ウェスレーなど、既存のプロテスタント指導者にもフスの思想の影響を受けた者がいる。

また、後の時代には三十年戦争が、このフス戦争を模倣する形で開戦した。なお、ボヘミアのフス派自体はこの三十年戦争の初期、1620年白山の戦いでプロテスタント系の貴族がハプスブルク家に敗れた事で完全に壊滅した。このときも生き残ったチェコ貴族の多くがポーランドへと亡命している。

ただし、19世紀末から始まったボヘミア地域でのカトリック改革運動は、チェコスロバキア建国による民族意識の高揚を受けてフス派の教義への復帰とカトリックからの離脱運動へと転化し、1920年にチェコスロバキア教会が成立した。同教会はフス派の後継者を自称し、1971年チェコスロバキア・フス派教会と改称している。[1]

ウィキペディアより)

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