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Shota Maehara's Blog

現代人にとって愛とはなにか―『東京物語』(小津安二郎)が語るメッセージ

Posted by Shota Maehara : 7月 31, 2012

いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。―コリント人への手紙第一 第13章13節

キリストの教える「愛」(アガペー)とは何でしょうか。例えば、岩波書店の広辞苑第五版はいわゆる一般的な愛(エロス)と区別して次のように説明しています―「アガペー(agape ギリシア)神の愛。神が罪人たる人間に対して一方的に恩寵を与える自己犠牲的な行為で、キリストの愛として新約聖書に現れた思想。」。すなわち、イエス・キリストはまだ罪人である私たちのために十字架に架かり、そして神と和解させて下さいました。これこそが愛であり、自己犠牲的な愛なのです。例えば、ヨハネ福音書にも「友の為に命を捨てる以上に大きな愛はない。」とあります。

もちろん、これをそのまま私たち人間に適用することは、まれな例を除き、非常に難しいことでしょう。そこでドイツの学者ボンへッファーやアメリカのリック・ウォレン牧師は、これをパラフレーズして、愛とは、他人と一緒に時間を過ごし、話に耳を傾けることであるいう重要な指摘をしています。なぜなら人間にとって時間こそがニ度と戻って来ることのない自分の人生の一部だからです。その意味で、まさしく自分の時間を与えるということは、犠牲を払うことに他なりません。そして、犠牲こそが愛だからです。

さて、それにしてもなぜ人間にとって最も貴重なものがお金ではなく、時間なのかという点に疑問を持たれる方もいらっしゃるのではないでしょうか。確かに、現代人にとってお金は最も大事なもののように見えます。子どもでさえもがプレゼントに何が欲しいと聞かれて、お金が欲しいと答える光景をしばしば目にします。

しかし、それは戦後高度経済成長の中で、経済的な豊かさのみを至上の価値と思い込んだことによる錯覚にすぎないのではないでしょうか。この疑問を解く鍵は小津安二郎監督の代表作『東京物語』にあると私は考えます。

この物語は、周吉、とみの老夫婦が広島県の尾道から成長した子供たちに会いに二十年ぶりに東京を訪れるところから始まります。東京で長男の幸一は、町医者をしており、長女のしげは、美容院を営んでいます。彼らははじめは両親が来てくれたことを喜び、できるだけもてなそうとします。しかし、仕事が忙しく満足に相手をしてやることもできない。そこで話し合った末、お金を出し合って熱海の旅館に何日か行ってもらうように決めるのです。老夫婦はこの申し出をありがたく受けますが、その姿からはどこかにかすかな寂しさが漂っているのでした。

その一方で、彼らの心を慰めてくれたのは、戦争で死んだ次男昌二の嫁・紀子の存在でした。彼女はわざわざ仕事を休んで、義理の両親のために二人を東京見物に連れて行ってくれます。そして、労わりのこもった言葉を二人にかけてくれるのです。二人は心からお礼を言い、「今まで本当に息子のことで苦労をかけてすまなかった、どうかいい人がいたら気兼ねすることなくお嫁に行って欲しい」と告げるのでした。

その後両親は尾道に戻りますが、程なくして一緒に暮らす次女の京子から「ハハキトク」の電報が届きます。長男の幸一と長女のしげそして紀子たちは、出来るだけ早く尾道へ向いますが、母はまもなく息を引き取ってしまいます。東京訪問の直後のこの母の死は虫の知らせだったのかもしれないと悲嘆にくれるものの、葬式を終えると、実の子どもたちは仕事のためにそそくさと東京に戻ってしまいます。そして、またもや紀子だけが尾道にもう数日だけ残ることになるのです。

尾道で父と暮らす次女・京子は義理の姉紀子に長女しげたちへの不満をぶつけます―「実の親子なのに、形見だけ受け取って早々と帰ってしまうなんて。自分勝手なんよ」と。すると紀子は「でもね、京子さん、大人になると、御父様や御母様とは別の御姉様だけの生活があるの。御姉さまも決して悪気でやった訳ではないと思うの。誰だってみんな自分の生活が一番大切大事になってくるのよ。」と優しく諭す。それに対して京子は、「自分はそうなりたくない。もしそうなら親子なんて、随分つまらない。いやね、世の中って。」と反論する。紀子もまた「そうね。嫌なことばっかり…。」と少し淋しそうに呟くのだった。

やがて紀子が東京へ帰る前に、義理の父周吉と会話を交わす最後の場面が、この映画をいっそう印象深いものにしています。

今回の東京の訪問で、「あんたに親切にしてもらったことが何よりも一番嬉しかったととみが言っていた」と周吉は話す。そして、「あんたみたいにいい人はいないってお母さんも誉めていた」と。それに対して、紀子は自分の胸の不安をはじめて吐露する―「そんなことありません。わたくしずるいんです。いつも昌二さんのことを考えているわけではありません。わたくし、このままこうして独りでいたら一体どうなってしまうかを考えてしまうことがあるんです。何ごともなく一日が過ぎて行くことが寂しいんです。ずるいんです」。それを聞いた周吉はにっこりほほ笑んで、「やっぱりあんたはいい人だ。正直で」と言った後で、とみの懐中時計を形見に貰ってくれと差し出す。

そして、「妙なもんじゃ。自分が育てた子供より、いわば他人のあんたのほうがよっぽどわしらに良うしてくれた。ありがとう」としみじみと紀子に感謝の言葉をかけるのだった。

この作品で、小津安二郎は一体何が伝えたかったのでしょうか。それは東京のせわしない生活の中で、お金ではなく「時間」こそが現代人にとっての愛の本質を形作っているということに他ならないでしょう。現代に生きるわれわれはそれぞれが精一杯働き、努力をしている。それは素晴らしいことです。しかし、家族や友人や恋人や目の前にいる他人が苦しんでいる時に、自分の時間を割くことなくお金で済ませようとしたなら、それは果たして愛でしょうか。もし自分が相手の立場だったとしたらどう感じることでしょうか。

このように考えてくると、私は自分の胸が痛みます。なぜならば、私自身大学院時代にクリスチャンの友人にこう言われたからです。つまり、「自分一人で研鑽を積むだけではなく、あなたはそれを人々に教えるためにもっと時間を費やすべきだ」と。それ以来、今でも私は他人と一緒に時間を過ごすという事がどれほど出来ているかと自問することがよくあります。

もちろん、自分のためだけに時間を使ってしまうことは現代生活では避けられません。これは悲しいかな事実です。しかし次の時代に生きるわれわれは、これまでの自己中心の生活ではなく、共に生きる生活を合言葉にしていかなければならないとするなら、それにはまず各人が心の中の固い自我の殻を少しずつ破っていく必要があると思うのです。その先に、たとえ完全には至らなくとも、他人に対して見返りを要求しない神の愛(アガペー)に基づいて生きる可能性が顕われるのではないでしょうか。

関連文献: 「東京物語」試論―「時間」の共有をめぐって

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コメント / トラックバック1件 to “現代人にとって愛とはなにか―『東京物語』(小津安二郎)が語るメッセージ”

  1. Shota Maehara said

    小津安二郎『東京物語』について書いたのはこれで二度目です。ともに「時間」というテーマを扱っています。私が書いた多くのエッセイの中でも、もっとも愛のある良い作品になったと心から神に感謝しております。どうか主イエス・キリストの限りなき愛がこれを読んで下さったあなた方とともにありますように。アーメン。2012年8月1日(水曜日)

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