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Shota Maehara's Blog

宗教改革の光と影 7―カール・バルト「ハイデルベルク信仰問答」を読む

Posted by Shota Maehara : 7月 4, 2012

幼児洗礼の問題

七四問 幼い子供たちにも、洗礼を授くべきでしょうか。

―そうです。子供たちも大人とおなじように、神の契約とその教団に属しており、罪からの救いと、信仰を起こして下さる聖霊とが、彼らに対しても、大人に対してと同じように、キリストの血において約束されているのですから、彼らもまた、契約の徴としての洗礼によって、キリスト教会に接がれて、不信者の子供たちから区別されるべきです。それは、ちょうど旧約聖書において、割礼によって区別が行われているのと同様です。この割礼の代りに、新約聖書では、洗礼が設定されているのです。

この問答の出現は、唐突である。洗礼は、信仰の保証である。あるいは、イエス・キリストに血と霊によって、その起源が確かなものとされて、信仰の基礎づけが保証されることである。〔その場合〕自分の信仰を告白し、洗礼を受けることを願う信仰する人間が、前提とされている。ところが、突然に―またこれまで述べて来たこととは明らかに矛盾して、幼児(infantes)の洗礼について語られる。古プロテスタンティズムの神学全体において(カルヴィンにおいても)、幼児洗礼は、このような思いがけない無根拠な仕方で扱われた。すなわち、それまで挙げられていた洗礼にとっての基本的な標識が―ことに受洗者の信仰が、突然不問に付せられる。なぜと言って、乳児が信ずるということは、理性的に受け容れられないからである。「泣き叫ぶ子供」が、ここで罪人がその反抗にもかかわらず聖霊に捕えられていることの、証明なのであろうか。信仰は、洗礼によって、幼児に媒介させるのであろうか。それとも、他の人々の信仰が―恐らくは両親や洗礼立会人の信仰、あるいは集まった会衆の信仰が、その代理をするのであろうか。したがって、この場合、受洗者の信仰は、少しも問題ではなくて、代りの信仰が、問題なのであろうか。しかし、それらすべてのことは、これまで洗礼について教えられてきたことと、どういう関係になるのであろうか。

七十四問には、それ自身としては正しい三つの根拠が、挙げられている。

(1)幼い者も年とった者も、神の契約に属し、聖霊の約束が彼らすべてに与えられているということは正しい。しかし、それによって〈信じていない者、したがってまた自分の信仰を告白し得ない者が、教団に属している〉というようなことが、言われているのではない。教団(ゲマインデ)の一つの活きた肢(えだ)が、他の人の信仰の客体にすぎないというようなことが、あり得るであろうか。それとも、子供は、一つのキリスト教的家庭の子供として、教団に属するのであろうか。

(2)信仰者の子供が、他の子供たちから区別されなければならぬということは、正しい。Iコリント七・一四を見よ!しかし、彼らが教団の肢(えだ)々であるということではなく、ただキリスト者の両親によって、特別の提供がなされるという限りにおいて、彼らが区別されているということである。しかし、このようなことによって、これらの子供たちが、どうしても洗礼を受けなければならぬということについては、まだ何も言われていない。

(3)洗礼が割礼の代りであるということは、正しい。この論証は、改革派教会においては、いつも特別の役割を演じて来た。オランダの教会では、《Verbond》すなわち、神が教団(ゲマインデ)とではなく、キリスト教的諸民族と結び給うた一つの契約について、語られている。われわれがこの観念を広げてゆくと、「キリスト教的西洋」について語ることになる。世界政治的な景観が、展開されるわけである。しかし、教会は、本当に、そのような「キリスト教世界」(Corpus christianum)と同一視され得るであろうか。この問題によって、一切が決定される。イスラエルが諸民族の間にあって、割礼という徴によって、区別されなければならなかったのは、一人の方がこの民の中から、裔として生まれ給うたからではないであろうか。そして、このことが成就され、彼が来たり給うた後においては、この民族の歴史は、終わったのではないであろうか。その後においてなお、どのような意味で、聖なる教会について語ることができるのであろうか。イスラエルと教会は、別のものではないであろうか。そして、われわれは、新しい契約の教団(ゲマインデ)の中へは、信仰に基づいて受け容れられるのではないであろうか。もちろん、イスラエルは、血に基づいて、家族的結合・民族的結合として、構成された。しかし、神の子らの集まりは(ヨハネ一・一二参照!)、聖霊によって召されるのである。神の子らは、一人の人間の意志によって生まれたものではなく、すべての民の中から、御言葉によって呼び出された者たちである。この点に関して、ユダヤ教的理解が力を持っていて、キリスト教的諸民族について、人々が語り得るということは、教会史の多くの誤りの一つである。教会は、もはやイスラエルではなく、イスラエルはいまだ教会ではなかったのである。(もっとも、神の契約が、このような二重の形態を持っているとは、言うことができるが。)このことによって、しかし、洗礼に対する割礼の論証は、力を失う。ただ確信できることは、両方いずれの場合においても、契約の徴が、示されているのだ、ということである。ただし、それは、違った種類の契約の徴なのである。このことは、イスラエル人の男性だけが割礼を受けて、娘たちはやはり洗礼を受けたという事実によっても、証明される。

ハイデルベルク信仰問答は言及していないが、幼児洗礼に対しては、今一つの根拠が、好んで挙げられるのが常である。すなわち、幼児の洗礼こそ、「先行する恩寵」(gratia praeveniens)の不思議な徴であると言われる。宗教改革者たちは、この論証を、少しも用いなかった。それに、この論証が貫穿力(かんせんりょく)を持ち得るのは、幼児洗礼の正当性が証明された場合に限る、ということも、言わなければならないであろう。

しかし、幼児洗礼を執拗に固守する真の根拠は、きわめて端的に言って、もし幼児洗礼をやめるならば、教会は急に驚くべき仕方で空中に投げ出されることになるだろう、という点である。なぜかと言えば、その場合には、一人一人皆、自分がキリスト者であろうと思うかどうかを、決定しなくてはならないからである。しかし、その場合、どれだけのキリスト者が、存在するであろうか。そのことによって、国民教会(フォルクスキルヘ)という考えは、すべて動揺するであろう。しかし、そのようなことが起ってはならない。そこで、人々は、幼児洗礼のために、次々に根拠を挙げる。しかも、根本的に忸怩(じくじ)たるものがあるために、やはり説得的に語ることはできないのである。成人の洗礼を実施しても、それは、もちろん、改革を必要とする教会の改革そのものではないであろう。なぜかと言えば、幼児洗礼を固守するということは、教会が活きておらず・勇敢でなく・ペテロのように海を渡って主に向って進むことに不安を懐き・そのために手摺を探し求めてしかもただ当てにならぬ支柱を見出すという数限りない様々の徴候の一つ―もちろん、きわめて重要なものではあるが―にすぎないからである。

しかし、このように幼児洗礼を固守することの帰結は、第一には、「堅信礼」によって洗礼が、その価値を失うということである。この堅信礼において、洗礼は、信仰によって、保証されねばならない。したがって、洗礼に先立つべきであった信仰告白と〔受洗の]願いが、いわば補充されなければならないのである。人が十五年後に、自分の信仰保証をしなければならない―そのようなことは、不可能である。しかし、幼児洗礼を固守したいと思う限り、それは、やむを得ぬことであろう。その場合には、洗礼は、事実上、後に続く堅信礼を抜きにしては、不完全ということになる。

しかし、今一つの帰結は、必然的に、自分のキリスト者としての存在を少しも問われず・したがってまた受洗の慰めを実現し得ない人々の大衆教会(マッセンキルヘ)が、形成されるということである。われわれは、われわれの教会の中を貫いて流れる無関心と世俗主義の流れを、怪しんではならないのである。

しかし、これらすべてのことによって、数世紀以来行われて来た洗礼が、真に洗礼ではなかったなどということが、言われてはならない。〔洗礼の〕執行(プラクシス)がどうであるにしても、洗礼は、依然として、洗礼である。ここで論じているのは、単に秩序の問題である。しかし、今日新しく提出されている幼児洗礼の問題は、まさに洗礼執行の正しい秩序についての新しい自覚へと、われわれを招くのである。―カール・バルト 「キリスト教の教理―ハイデルベルク信仰問答による」(『カール・バルト著作集9』、四三七~四四〇頁)

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