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Shota Maehara's Blog

宗教改革の光と影 6―カール・バルト「ハイデルベルク信仰問答」を読む

Posted by Shota Maehara : 7月 3, 2012

神の信仰と義

人間がキリスト教団(ゲマインデ)の肢(えだ)として、感謝に満ちた服従の中に、しかも自分の価値や業績に対して何の要求も持たずに、そしてそれゆえにこそ完全にまた強く〈イエス・キリストの死と甦えりにおける神の義なる業は、すべての人にとって、したがってまた自分にとっても、その目標に到達したのだ〉という唯一の慰めに依り頼む確信―それが信仰である。信仰は、このような内容を持っているゆえに、また信仰だけがこのような内容に相応しいものであるゆえに、信仰は―そして信仰だけが、その義認に至る唯一の人間の道である。―カール・バルト 「キリスト教の教理―ハイデルベルク信仰問答による」(『カール・バルト著作集9』、四二二頁)

宗教改革的認識

人間の信仰は、どの程度に人間を義とする道なのであろうか。また、人間の義認は、どの程度にこの道と結びつけられているのであろうか。われわれは、ここで、「ただ信仰によっての義認」sola fide(ただ信仰によってのみ)という宗教改革的認識の中心に立つ。これは、どのようなことであろうか。

この場合、必然的に三つの境界設定が行われる。

(1)信仰が人間を義とするのは(たとえ部分的にでも!)、その信仰する主体に残っていたり、あるいは新しく獲得せられた、無垢清浄さによるのではない。また、信仰は、病人を健康にして神に喜ばれるものとする一種の薬ではない(カール・ホル!)。義認ということが、人間の中における何か「善いもの」に関連を持つと考えるこのような考え方は、すべて拒否されなければならないし、また、宗教改革者たちによって拒否されたものである。もちろん、信仰は事実、神の善き被造物の態度であり、またそれは、生活の変革である。ただし、それは、救われた者としても、また救われた者としてこそ、自分が五問、八問、一三問に記されているような罪人と同じ者であることを知っている人間の生活の変革なのである。なぜかと言えば、キリストを信じている人間だけが「人間の悲惨」を知っているからである。したがって、信仰によって義とされるのは、信仰する人間がまだ罪人でないとか、もはや罪人でないとか、という理由によってではない(六〇問の前半)。そうではなくて、信仰する人間は、罪人でありつつ、義とされるのである。

(2)信仰が人間を義とするのは(たとえ部分的にでも!)、その人間が感謝の中にあって、何か新しい善い生活を生み出すという理由によってではない。〔もとより〕信仰は、そのような生活を生み出す。また、信仰する人間は、必ず信仰において善き業をなすであろう(六四問の「真の信仰によってキリストに接がれた者が、感謝の実をもたらさぬというようなことはあり得ない」という言葉を参照)。また、そのような善き業がいつまでも報いを受けぬということも、必ずないであろう(六三問)。しかし、われわれが、何に信頼するかと自問する場合、われわれは、決して自分の「善き業」を指示したりはしないであろう。そのような「善き業」によっては、われわれは、神の御前に立つことはできないのである。それは、神の御前において通用する義は、「神の律法と全く一致するもの」(六二問)でなければならぬからである。われわれの性向は、われわれの善き業にもかかわらず、いつも「生まれつき、神と自分の隣人を憎む傾向がある」(五問)というようなものである。したがって、われわれは、恩寵によって、そしてただ恩寵によってのみ、神に受け容れられるのである。

(3)信仰が人間を義とするのは(たとえ部分的にでも!)その人間自身の中に宿る何かの性質によるのではない。「それは、私が自分の信仰の価値によって、神に喜ばれる、ということではありません」(六一問)。〔もとより〕信仰は、一つの人間的な行為でもある。信仰の中にあっても、われわれは、なお人間的な動と反動の領域の中におり、したがってその領域特有のあらゆる問題性の中にいるのである。しかも、信仰者こそ、〈自分は自分自身からは信ずることはできない。これは聖霊の業である〉ということを知っている。したがって、人間は、信仰においてこそ、神を正しいとし、自分自身を正しいとしないであろう。

信仰が人間を義とするのは、信仰する人間が、キリスト教団に与えられている約束の下に、身を置くからである。キリスト教団(ゲマインデ)とは、〈神の計画と意志は、すべての人間のために成就され、イエス・キリストにおいて、その目標に達している〉ということを知ることを許されている人間の集まりである。信仰する人間は、イエス・キリストが「私共のためにそこに存す」(四六問)ということ、「彼が天において、その父の御顔の前で、私共の執成しをする者であり給う」(四九問)ということを見る。信ずる者は、神の義なる裁きに信頼する。そして、神に対して「然り」と言って、もはや呟かぬことによって、神との平和の中に生きる。したがって、そのような人は、神を正しとする人であり、まさにそのようにして、同時に神の御前において、正しい人なのである。このようにして、信ずる者は、いまだ途上にありながら、すでに目標に至っており、キリストの中にあるのである。

人の信仰が、その人を義とするのではなく、その信仰の対象と内容が、その人を義とするのである。しかし、この対象は、人間に与えられる一つの贈り物である。それは、信仰者が、ただ受けることだけできるところの・ただ承認することだけできるところの・ただ信頼することだけできるところの恩恵である。このような態度は、神がわれわれに与え給う神の自由な慈恵に、対応するものである。なぜなら、このような態度においてこそ、「あたかも私が罪を犯したことが…ないかのように」(六〇問)神に栄光が帰せられ、神の義認の贈り物は受け容れられるからである。それは、「信仰の大胆な行為」である。「義人はその信仰によって生きる」。すなわち、信仰とその対象との間には、一つの即事的な(ザッハリッヒ)な対応があるのである。信仰者は、自分の信仰を誇ろうなどとは思いつきもしないが、しかし、彼は、神が自分を喜んでいて下さるということを、受け容れることを許されているし、また受け容れるであろう。

このようにして、信仰が―そして信仰だけが、裁きにおいて人間が義とされるに至る道である。―カール・バルト 「キリスト教の教理―ハイデルベルク信仰問答による」(『カール・バルト著作集9』、四二四~六頁)

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