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Shota Maehara's Blog

宗教改革の光と影 4―カール・バルト「ハイデルベルク信仰問答」を読む

Posted by Shota Maehara : 7月 3, 2012

三位一体

神が「ただそのような方でのみある」ということは、〈このような三一の神でないような神についてどのような観念も(それがどんなに美しく、どんなに意味深遠なものであっても)、一つの偶像、一つの偽りの神の像を築き得るにすぎない〉という意味である。この点からして、二九、三〇、八〇、九四、九五、一〇二、一二五問において見るような、この信仰問答の唯一神論に対する熱中は、理解される。そこでは〔神の〕単一(アンハイト)に対する思弁的な関心が肝要なのではなくて、むしろ〔ハイデルベルク信仰問答の〕編纂者たちにとっては、イエス・キリストの御業において顕わされた三一の神の独一性(アンチヒカイト)が、重大なことであったのである。―カール・バルト 「キリスト教の教理―ハイデルベルク信仰問答による」(『カール・バルト著作集9』、三八三頁)

神は、罪人の死を欲し給わない。むしろ、罪人が悔い改めて生きることを欲し給う。神が完全に厳しくあり・しかも完全に憐れみ深くあり給うということこそ、神の深みであり、神の義の深みである。―カール・バルト 「キリスト教の教理―ハイデルベルク信仰問答による」(『カール・バルト著作集9』、三九八頁)

神の義が憐憫であるということが可能であり、現実であるのは、われわれの事柄を御自身の事柄とするために、神自身が降り給うたからである。―カール・バルト 「キリスト教の教理―ハイデルベルク信仰問答による」(『カール・バルト著作集9』、三九八頁)

聖霊なる神

「我は聖霊なる神を信ず」とは、次のようなことである。

五三問 聖霊について、あなたは何を信じていますか。―第一には、聖霊が父および子と同様に永遠の神であり給うということを、信じます。第二には、聖霊は、私にも与えられており、真の信仰によって、私をしてキリストとキリストのすべての恩恵に与らしめ、私を慰め、永遠に至るまで私の許に留まり給うであろうということを、信じます。

〈神は単に私を越えたところにいることを欲せず、私の中にいることを欲し給う〉ということ―これが第三項の語る異常な中心の言葉である。Deus in nobis(われらの中なる神)である。あらゆる新プロテスタンティズムと、あらゆる攻撃者に反して、神はそのような方なのである!しかし、それは、どのようなことであろうか。それは、「聖霊は、私にも与えられており、真の信仰によって、私をしてキリストとキリストのすべての恩恵に与らしめ」給うということである。このようなDeus in nobis(われらの中なる神)。このように聖霊が私に与えられているということ。それは一瞬も、静的に理解さるべきことではない。キリストは、私の信仰の根底として、私に与えられている。したがって、神の方から基礎づけられることによって、われわれのいささかの信仰も、真の信仰である。すなわち、キリストとキリストのすべての恩恵に与ることである。信仰において、われわれは、神がわれわれに向かって差し出し給うものの方に、手を差しのべる。私は、イエス・キリストにおいて、客観的に得られた慰めに、主体的にすでに与っている(一問)ということを、信ずる。信仰が終わることがあり得るということは、信仰の中に基礎を持つ事柄ではない。もし、私から信仰が失せるとすれば、その場合には、私が信仰を投げ捨てたのである。―カール・バルト 「キリスト教の教理―ハイデルベルク信仰問答による」(『カール・バルト著作集9』、四一七頁)

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