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Shota Maehara's Blog

宗教改革の光と影 1―カール・バルト「ハイデルベルク信仰問答」を読む

Posted by Shota Maehara : 6月 26, 2012

ハイデルベルク信仰問答は、当時神聖ローマ帝国の領地であった、今日のドイツ南西部にあたるプファルツの都ハイデルベルクにおいて、一五六三年に、キリスト教会の教理を示す目的で、宗教改革者らによって作られた。

それはカール・バルトが述べるように「十六世紀に更新せられた教会の一つが、宗教改革全体の積極的な方向をよく示す仕方で、その福音の認識に対して与えられた形式として、成立したものである」。また一五六三年という年は、もはや宗教改革の初期の時代や戦いの時代ではなく、「むしろ、それは、始まりつつあった反宗教改革の時代」であったことを知っておくことは極めて重要なことであろうと思われる。

なぜなら、後世におけるゆがめられた「宗教改革」ではない、真の宗教改革の主題をそこから垣間見ることができるからである。それは、今日に生きるわれわれとも決して無縁のものではない。たとえば、もし近代のヒューマニズムが、華々しい科学の発展や個人の権利の擁護を生み出したと同時にアウシュビッツに帰結したという見方が許されるならば、人間は神との正常な関係を失うことによって、人間と人間との正常な関係も見失ったと考えることがやはり真理であるように思われるからである。

では、われわれがあの「宗教改革」によって得たもの(光)と見失ったもの(影)とは何なのか。このことを慎重に明らかにしていくことがますます求められてくるのではないだろうか。その一端として、ここに、カール・バルトの「ハイデルベルク信仰問答」に関する講義の一部を引用する。

 七問 では、人間のそのような荒廃した有様は、どうして起ったのでしょう。―
 
     それは、私共の最初の祖先であるアダムとエバの楽園における堕落と不従順から、起ったことです。なぜ
    言って、私共の本性は、毒せられてしまって、私共は、みな罪のうちに孕まれ、罪のうちに生まれることに
    なったからです。
 
  人間が正常性(レヒト)を破壊する者となるのは、契約からの堕落に基づくことであり、人間が歴史の中に入り
 込み、罪という不可能な場所に赴く時にたずさえていく不従順に基づくのである。

 八問 しかし、私共は、どんな善に対しても全く無能力であり、あらゆる悪を行う傾向を持っているというほどに、  
     荒廃しているのでしょうか。―

     そうです。私共が神の霊によって新たに生まれるのでないならば、その通りです。

  このようにして、人間は、人類の一人一人において、あらゆる善に対して無能力な者・あらゆる悪を行う傾向
 を持つ者として、登場する。別の事態が起るためには、「新発足」が必要である。

 九問 では、神は、人間に不可能なことを、人間に対して、その律法において、要求するという不正を、人間に 
     対して行い給うのではないでしょうか。―

     否、そうではありません。なぜかと言えば、神は人間を、そういうことができるように、造り給うたからです。と
    ころが、人間は、悪魔のそそのかしのために、無謀な不従順によって、自分自身とすべての子孫から、この
    賜物を、奪ってしまったのです。

  人間は、自分が何かの歴史的圧力の下にあって、いかんともし難いのだ、というようなことを、申し立てることは 
 できない。神は人間を善く造り給うたのだが、人間は自分の自由を否定し、これを失ってしまったのである。

  注目に値するのは、以上すべての脈絡において、人間の特別な悪行に対する反省(後世になってからは明ら 
 かに行われたが)は、見いだされないということである。人間は十六世紀においてもすでに天使ではなかった。人  
 間の数々の非業を、名を挙げて言うということは、容易いことであったろう。ところが、人間は、あらゆる善に対し
 て無能力であり、神と隣人を憎む傾向を持っているということだけが、人間について語られるのである。聞く耳あ
 る者は聞くべし。―さらに、以上の脈絡においては、人間について恐らくやはり言うことのできる様々の善や長所
 についても、語られていない。人間が悪であるという事実は、動くことがなく、またそれはどんな歴史哲学によって
 も、基礎づけられたり、説明されたりすることは、不可能なのである。
  
  この告発の権威と真理性は、何に基づくものであろうか。それは、われわれがその時々に人間から受けることの
 できる様々の印象に基づくものでは、もちろんない。そのような印象は、変化するものである。人間が根本的に
 善ではないということ。むしろヒューマニズムや文化の上塗りは堪え難いほどに薄いことが示されたということ。この
 上塗りが剥げて、人間の奥にひそんだ動物的な本能をあらわにするのは雑作もないということ。これらの事実
 は、三十年あるいは四十年以前よりも、今日はさらに明瞭である。しかし、われわれが明らかに知っていなけれ
 ばならないのは、今日のこのような有様も、再び変化することがあり得るということである。三十年戦争のころに
 は、〈人間は善ではなく、したがって当然の告発を受けるのだ〉ということを、すべての人が確信していた。この戦
 争は、一六四八年に終わったが、その世紀の終りのころにはもう、ライプニッツが、その楽観主義の学説をもっ
 て、学派を作ることを始め、人間の善と徳についての実に輝かしい見解によって、十八世紀にいたる過渡期を
 形成したのである。このようにして、ローマ・カトリック的見解とヒューマニズムの見解は、〈人間を、あらゆる善に対
 して無能力な者、神と隣人を憎む傾向を持った者という風に、特徴づけることは、行き過ぎだ〉という点で、一致
 しているのである。
 
  しかし、この告白は、議論の余地ある様々の見解や印象に由来しているのではなく、まったく他の場所に根拠
 を持っている。ここでは、問題は、単に人間的な告発に関するのではない。三問―九問の叙述は、楽観主義
 あるいは悲観主義から生まれたものではなくて、むしろ神の律法に対する聴従に基づいている。人間に対する
 比較的寛大な批判も、今日のわれわれの比較的苛酷な観察も、このような「向う側」に立つということが、何
 よりも重要なことである。そしてこのような「向う側」において、〈人間は悪しき者だ〉という決定が、下されるのであ
 る。

 ―カール・バルト「神の告発」(『キリスト教の教理―ハイデルベルク信仰問答による』、三五八~三六〇頁)

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