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Shota Maehara's Blog

原発と神の義 第六講話―力は弱さの中にあってはたらく

Posted by Shota Maehara : 5月 4, 2012

先の講話では、人々と連帯を取り戻すには、まず自らの「自我」(ego)を打ち破るべきこと、また、そのきっかけは単なる同情を超えて、傷ついた他者を目の前にしたときにはらわたをつき動かされて無意識に手を差し出す、まさにそのような瞬間にあることに触れた。その上で、今回の講話では、単独者ではなく、国家戦略として、これまで話されてきた講話にどんな意味があるのかを掘り下げていきたい。

現在、経済産業省では総合資源エネルギー調査会基本問題委員会を開き、2030年の原子力発電や再生可能エネルギーの比率目標­を議論している。その際、原発反対派と原発推進派の不毛な対立は避けつつも、再生エネルギーなどによる完全な代替は不可能であると訴える委員からは、自らの計算の内訳を、安全性を確保した上で、原子炉の耐久年数を40年ではなく、60年にした場合という意見が出されている。その一方で、今回の福島第一発電所の事故の原因も究明されていないまま、原発を使い続けるならこの程度のコストで賄えますという議論自体がどうなのかという意見もあった。

この議論は、政策担当者や有識者が、日立、東芝、GE、三菱電機、富士電機などの原発メーカーや東京電力、関西電力をはじめとする電力会社への配慮もさることながら、日本経済全体の発展や安全保障、すなわち国益の観点から意見を出されているのだと感じている。なぜなら、このまま少子化が進み、経済構造の転換がはかられないままなら、かつて世界第二位とまで言われた経済大国の地位を致命的に失いかねないという懸念があるからだろう。それはまさしくその通りであろうと思う。

しかし、ここには決定的に欠落している視点がある。それは、福島のような事故がふたたびこの国に起きてしまえば、コスト計算を超えた「人のいのち」が失われるだろうということだ。さらに豊かな国土がまたもや放射能によって荒廃してしまうだろうということだ。おそらく彼らは現実にそんな甚大な被害はありえないし、もし関東や関西や四国で同じ事故が起これば違う土地に移り住めばいいと言うかもしれないが、その場合政府や企業に対してナショナリズム(民族主義)が再燃してしまうことは火をみるよりも明らかである。

よく思い出してほしい。かつて世界に覇権を誇ったローマ帝国も外から侵攻してくるゴート族によって滅びたのではなく、人心の崩壊によって、すでに内側から腐りかけていたのである。共和国の理念は廃れ、共同の福利に対して、人々は欲に溺れ、関心を失っていく。そしてついに、帝国は自壊するのである。すなわち、強者の論理は、「人がパン(物質)のみではなく、神のことば(精神)によって生きる」という神の真理を踏みにじるものでしかなく、パンのみを求める物質主義に市民もまた少しづつ染められていってしまったのである。

では、我々はどうすればいいのだろうか。どうしたら健全な民主政治がこの国に根付いてゆくことができるのだろうか。私は、むしろ、国民が強さを誇ることではなく、「弱さを自覚する」ことが鍵ではないかと思っている。

ふつう弱さとはネガティブ(否定的)なものだと捉えられている。だが、キリスト教では、弱さの中にあってはたらく力こそが人を滅びの道から救い出すという信仰の逆説を教えている。パウロはダマスコの途上でキリストと出会い、異邦人(非キリスト教徒)への使徒に召されて以来、数々の苦難に遭遇してきた。その彼が新約聖書コリント人への手紙第二で次のようわたしたちに語っている。

しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。(コリント人への手紙 第二第12章第9~10節)

このパウロの書簡は、我々に何を伝えようとしているのか。それは順風満帆に思える時、強さを誇ることが、「自己」を中心にものごとを考え、自分の思考や心の中から、「神」(本当に大切なもの)を排除してしまうということである。それは、友人や恋人や家族かもしれないし、掛け替えのない隣人の命そのものかもしれない。そして、傲慢になった結果足元が見えず、過ちを犯すのである。

それに対し、何か危機に直面して、自らの弱さを自覚させられた人間は、自分ではなく「神」を心の中心に迎え入れる。すべてを空け渡し、謙遜に生きる。そして、自分以外のものの大切さを悟り、それらをまず第一に優先して生きる決断をする。そして、心から謙って、人から教えを乞い、危機を乗り越えようと努力する。強さは滅びに向い、弱さは救いに至るのという聖書の真理はこのことを示している。

したがって、戦後日本人はいまこそ自らの弱さをはっきりと自覚し、謙遜に、知恵を出し合うことによって、原発のない新しい社会のモデルやライフスタイルを模索するべきである。それはいまこの瞬間をおいてほかにない。そのためには、経済的な繁栄や軍事力の強さをではなく、文化的な成熟をこそ求めてゆくべきだと私は考える。この国にきちんとした民主政治が根付き、学問や芸術や科学を高いレベルで維持していくことができれば、経済水準はやや下がったとしても今後もイギリスのように世界で発言力をもつことができるであろう。

(祈り:主よ、自らの過ちを心から悔いたことで滅びをまぬかれたニネベの人々のように、原発問題を通して、いまこそ日本が正しい道に立ち戻ることができますように助け導きください。)

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コメント / トラックバック2件 to “原発と神の義 第六講話―力は弱さの中にあってはたらく”

  1. Miliy said

    第6話、ありがとうございます。人は、いつも強くなろう、豊かになろうと頑張り、挑戦し続ける。がしかし、おごり高ぶる心もいつしか膨らんで行ってしまうものです。だから、高慢にならないように心したいものだが、とかく置き去りになりがちです。これが、企業や地方共同体・国家というものだとしたら、個人レベルの比ではない。全国民の未来に跨る子々孫々への重大な判断になってくる。貴君の述べる、『力は弱さの中にあってはたらく。』は、日本がどこに向かってハンドルを切るかの大きな判断に対する力強い示唆与えてくれる。ありがとう。

    • Shota Maehara said

      やや一キリスト者としての発言としては、謙遜さを書いていたかもしれないと自らを省みています。しかし、クリスチャンという立場から、本当に大切なことはみなさんにお伝えできたのではないかと願っています。コメントありがとうございました。あなたの励ましに心から感謝しています。前原

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