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Shota Maehara's Blog

原発と神の義 第三講話―なくてはならぬもの

Posted by Shota Maehara : 4月 29, 2012

先の講話を受けて、この第三講話では、人はなぜ神のことばよりも日々のパンのほうを求めてしまうのかという問題について、その原因を少しずつ慎重に掘り下げていきたい。なぜならば、この問題は、単に人間の自己中心や欲望などという言葉では片付けられない根本的な主題を孕んでいるように思われるからだ。

まず、2011年の3月11日に東日本大震災が発生し、、その後に津波等の影響も加わって福島第一原子力発電所の事故が起こり、、その後の政府や東電の対応、さらに復興もままならない時期に再び原発を再稼働させようという動きがある。ここに我々は何をみるべきなのだろうか。

一部では原子力政策を推し進めて政府関係者や御用学者の悪知恵や悪意だけが強調されている。しかし、私はむしろここに政府の方々や現場で処理にあたっておられる方々の理性や善意を見る。たとえば、先日たまたま手にした経済誌「エコノミスト」の記事の中で、3・11後の世界の原発政策を冷静に扱っているレポートには次のように書かれている。

確かに福島第一原発事故は大きな衝撃を与えたが、ほとんどの国で原子力は依然として電力源の選択肢として残され、エネルギー安全保障や発電コスト、再生可能エネルギーの可能性、温暖化対策など様々な要因によって、万が一のための切り札として原発の開発計画だけは準備しておこうと多くの国では考えられているのだと。

ここからも読みとれるのは、我々は誰しも自分や家族の暮らし、あるいは企業や国家を維持していくために、善意から知恵を振り絞って日々を生き抜こうとしているということだ。個人は自分の生活や家族を養うため、企業は競争に勝ち残るため、国家は広い意味での国民の安全を確保するために行動している。これらはすべてエゴかというとそう言いきれない。なぜなら、かつてもいまも日本人が馬車馬のように我武者羅に働くのは、究極的に自分以外の「誰か」、「何か」のためであることが多いからだ。

しかし、ここに現代の逆説が存在する。人間が善意で行動すればするほど、それが悪なる結果をもたらすという逆説である。相手のことを家族のことを思ってやることがかえって自分の足かせになってしまうことがある。ではなぜこのようなことが起るのだろうか。人間は善意で行動してはいけないというのだろうか。これを解く鍵は新約聖書のルカ福音書に収められている「マルタの物語」にあると私は信じる。

さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。

ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」

主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良い方を選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。(ルカの福音書、第10章第38~42節)

マルタは決して悪なるひとではない。自分なりに主をもてなそうと思って働いたのである。そして自分がこんなに頑張っているのに何ひとつやっていないマリヤに目をとめ、心がいらいらし、とうとう不満をぶちまけたのである。これは私たちの職場でもよく見かける光景ではないだろうか。

ここにあるのは人間的な理性や尺度(人間の義)で行動すればするほど、神の義からは遠ざかっているという逆説である。確かにマルタは一生懸命働いているが、主イエスが自分の家に滞在する時間はごくわずかである、いや今晩だけであろう。それなのに、彼女は主の言葉を聞くまたとない機会を逃してしまうかもしれないのである。なぜなら、それは彼女が雑事に煩わされて、一番大切なものを優先すべきことを忘れてしまっていたからである。そして、これはまた福島原発を巡る今日の私たちの姿とも重なる。

この話の教訓は人間の義によってパンを求めて行動することが神に敵対するような結果をもたらしかねないこと、すなわち神の義によって人間の義は絶えず否定されること、その断絶である。そしてなによりも、本当の意味で「なくてはならぬもの」(友人や家族、故郷や祖国、そして神の言葉)を第一にして、そこから生活を組み立てることの必要性を聖書は私たちに語りかけている。

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コメント / トラックバック2件 to “原発と神の義 第三講話―なくてはならぬもの”

  1. 謙治 said

    ありがとうございました。そうなんですね。私たちは、聖書のマルタのように「良かれと思いやっている」が、その行為が、本当に大事なことなのか、最も大切なことなのか?もしかすると全く逆のことなのではないのかと、考えてみることが大切なんですね。ありがとうございました。

    • Shota Maehara said

      謙治さん、コメントありがとうございます。全く同感です。教えられることの多いコメントでした。ありがとうございます。

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