I am the vine; you are the branches

Shota Maehara's Blog

原発と神の義 第一講話―人は生きるためにパンを必要とはしない

Posted by Shota Maehara : 4月 19, 2012

イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」―新約聖書マタイの福音書4章4節

私は大学生時代、教授などが集まる研究会に許可をいただいて参加させていただいていた。そのときの事でいまだに印象に残っている出来事がある。それは農業経済学の権威で、インドの経済学者アマルティア・センの流れをくんでいたある学者が立食パーティーの席でふと漏らしたことばだ。彼は相手の女性の学者に対して「人はね、まずなによりも明日の飯をどうするかということを考えなくちゃいけないんですよ」と言ったのだ。

これに対して私は不意に胸をつかれたような気持ちになった。私はこの時まだマルクス主義の文献を研究する左翼系の学生でしかなかったが、瞬間にそれは違うという思いが頭をよぎったのである。「人はパンのみにて生きるにあらず、神のことばによって生きるのである。」というマタイ福音書第4章4節の聖句が思い出されてきてならなかったからである。

一般的に、農業経済学やセンが業績を上げた厚生経済学は、フリードマンなどの自由市場経済学とは異なり、現代の貧困格差の問題に敏感な倫理や道徳を重視する立場だといわれている。もちろん私もそのように考えてきた。

しかし、実際は彼らの価値観は、「経済」を何よりも重視するという点で新自由主義経済学者と大同小異であったのだ。私はこの席で何とも言えない違和感を胸に家路に就いたことを覚えている。そしてこの違和感は今日に至るまで完全に拭いさられることはなかった。つまり、同じ価値観を共有する者同士が他方を批判し合っているだけなのではないか、そして、もしそうならば本当にこの世の中を改革することができるのかということに対する疑問であった。

今、私は今日の閉塞状況に直面して、この時の私の認識というか直感は正しかったのではないかという感を強くしている。そして私には、この人間の義のどこが間違いなのかをはっきりと指摘することができる。

確かに多くの人々と同様、私は生きていかねばならない。そのため、したくもない仕事をせねばならぬときがある。そして、家に帰れば体を休めねばならない。こうして日々は光陰のように過ぎ去っていく。私が本当になすべきことがなにかがわからぬままに。

しかしやがて不幸に出会った日には、打ちひしがれ、「なぜ自分がこんなつらい思いをして生きているのだろうか」と疑問に感じもするだろう。そのとき心は飢え渇いて、物質的なものだけでは満たされないと感じるだろう。それはまさしく人間が精神であるからである。だから、人は誰かの言葉を日々必要としている。

したがって、私は聖書のことばをより過激に再提示して見たいと思う。すなわち、「人が生きるためには、日々のパンを棄ててでも神の言葉を選びとらねばならぬ瞬間(とき)がある」。本当に生きるという意味で、パンは必要ではない。正しい道を歩むということ、このことを単に生きることのために犠牲にしてはならないのではないだろうか。原発に依りかかって生きるというあり方を含めて今の私たちは神のことばに寄り添い正しい道を見出していかなければならない。

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中