I am the vine; you are the branches

Shota Maehara's Blog

ヘーゲルの哲学を読む4―概念について

Posted by Shota Maehara : 1月 2, 2012

概念というと、普通は抽象的な一般性のことしか思いうかべられず、したがって、概念とは一般的な観念だと定義されるのが普通です。色の概念とか植物の概念とか動物の概念とかいわれるものがそうで、これらの概念は、さまざまな色や植物や動物のあいだに見られる特殊な要素をとりのぞき、すべてに共通するものを確定するすることによって得られます。分析的知性による概念のとらえかたがそれで、そうした概念を見て、無味乾燥で空虚だと感じ、それをたんなる図式ないし影だと思うのは当然のことです。たいして、普遍的な概念というものは、特殊なものをそのままに放置して、共通なものだけをとりだしてきたというものではなく、みずからを特殊化していくものであり、異質なものをとりこみながら濁りのない明晰さのうちにおのれを保つものです。たんなる共通のものと真に普遍的なものとを混同しないことは、認識にとっても実践にとっても、この上なく大切です。思考一般にたいして、とりわけ哲学的思考にたいして、感情の立場からよくもちだされる非難のすべては、そして、しばしばくりかえされる、いわゆる思考の行きすぎの危険性という主張は、右の混同に発するものです。

真なる包括的な意味での普遍性の思考は、それが人類の意識に入ってくるのには何千年の時を必要としたといわねばならないもので、キリスト教を通じてはじめて完全に承認されるようになりました。高度な文明をもつ古代ギリシャでさえ、真に普遍的な神も、真に普遍的な人間も知らなかった。古代ギリシャの神々は精神の特殊な力を体現したものにすぎず、普遍的な民族の神はアテネの人びとにとっていまだ隠されていた。だからこそ、ギリシャ人にとって、自分たちと異国人たちとのあいだには絶対の断絶があり、人間そのものがその無限の価値と無限の権利を承認されることはありませんでした。近代のヨーロッパで奴隷制が消滅したのはなぜか、と問われるとき、この現象を説明するものとしてあれこれの特殊な事情がもちだされます。が、キリスト教ヨーロッパにもはや奴隷が存在しない本当の理由は、キリスト教の原理以外に求めようがない。キリスト教は絶対自由の宗教であって、人間そのものが無限の普遍性をもつと認められるのは、キリスト教以外にはありません。奴隷に欠けているのは、その人格性の承認だが、人格性の原理こそが普遍的です。主人は奴隷を人格として見るのではなく、自己を欠いた物として見るので、奴隷には自我が認められず、主人が奴隷の自我です。

上に述べた、たんに共通なものと真に普遍的なものとのちがいは、ルソーの有名な社会契約論において見事に表現されています。国家の法律は普遍意志(volonté générale)から生じなければならないが、といって、万人の意志(volonté de tous)である必要はない、と。ルソーがこの区別をつねにしっかり見すえていたならば、その国家論はもっと徹底したものになったと思われます。普遍意志こそが意志の概念であり、法律はこの概念に根をおろした、意志の特殊な規定なのです。(ヘーゲル『論理学』三四八~三四九頁)
知性論理学のなかで諸概念の生成と形成にかんして普通、論じられていることにかんしてなお注意されねばならないのは、われわれが諸概念を形成するのでは全然ないということ、またおよそ概念は何か成立してきたものと見なされることはまったくできないということである。もちろん概念はたんに存在とか直接的なものとかにすぎないものではなく、それにはまた媒介も属するのであるが、しかしこの媒介は概念そのもののうちにあるのであって、概念は自己によって、そして自己自身と、媒介されたものである。われわれの諸表象の内容をなす諸対象が初めにあって、そのあとからわれわれの主観的なはたらきがやって来、これが先に述べた、諸対象に共通なものの抽象と総括の作業を通じて諸対象の概念を形成するというふうに考えるのは逆さまである。むしろ概念はほんとうに最初のものなのであって、もろもろの事物が現にあるあり方をしているのは、それらに内在してそれらのうちで己れを顕わにする概念のはたらきによるのである。われわれの宗教的意識においては、このことは、神は世界を無から創造したとか、あるいは換言すれば、世界と有限な諸事物は神の豊かな思想と思召しから出てきたとかいう言い方に見られる。このことは、思想、もっと精確には概念が無限な形式、あるいは自由な、創造的なはたらきであって、このはたらきは己れを現実化するために、己れの外に存在する素材などを必要としないことを認めている。(ヘーゲル『小論理学』四一二~四一三頁、真下信一、宮本十蔵訳)

概念はずばり具体的なものである。なぜなら即自かつ対自的に規定されたあり方は個体性であるが、そのようなあり方としての自己との否定的一体性はそれ自体、概念の自己への関係、普遍性をなすからである。そのかぎり概念の諸契機はばらばらに切り離されることはできない。(同書、四一三頁)

広告

コメント / トラックバック1件 to “ヘーゲルの哲学を読む4―概念について”

  1. Shota Maehara said

    ここで共通なものと普遍的なものとしての概念の違いを説明するくだりで、ルソーの社会契約論の中の全体意志と一般意志の違いに言及しているのは重要と思われる。今後の研究の課題である。また、後半のくだりで、われわれが目の前の個々の対象から共通する性質を抽象して概念を生み出すのではなく、むしろ概念こそが個別体を生み出すのだという主張にはあたかも自分が今立っているこの空間がねじ曲がるかのようなめまいにも似た感覚を覚える。この逆説に真理がある。

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中