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Shota Maehara's Blog

ヘーゲルの哲学を読む2―「現象」と「現実」の区別について

Posted by Shota Maehara : 1月 2, 2012

他方、同じように重要なことだが、哲学の内容とは生きた精神の領域において根源的に発生し、いまなお発生しつつあるものが、意識内外の充実した世界になったものであること―つづめていえば、現実そのものが哲学の内容をなすこと―、そのことを哲学は理解しなければならない。この内容を直接に意識することが、「経験」と呼ばれるものだ。世界を慎重に考察すれば、内外の広汎な事物について、移ろいゆく意味なき「現象」にすぎないものと、真の意味で「現実」の名に値するものとが区別される。同一の内容について、哲学とその他の意識とを区別するものは形式しかないのだから、哲学と現実の経験との一致がどうしても必要になる。少なくとも、この一致は、哲学の真理を判定する外的な試金石と見なされるので、この一致の認識からさらに進んで、自覚的な理性と存在する理性―との和解をもたらすことを、学問の最高究極の目的と見なさねばならない。

《注解》
わたしの『法哲学要綱』の序文に、

理性的なものは現実的であり、
現実的なものは理性的である、

ということながある。
 
この単純な命題は多くの人びとを驚かせ、敵意を招くことにもなったが、哲学のみならず宗教をも所有していると主張する人びとさえも、敵意を隠さなかった。宗教についていえば、神の世界支配というその教義は右の命題を明々白々に表現したものだから、ここで引きあいに出す必要はあるまい。が、哲学的な意味にかんしていえば、神が現実的な存在であること、もっとも現実的で、真に現実的な唯一の存在であること、のみならず、形式面でいうと。この世にあるものはその一部は「現象」であり、残りの一部だけが現実であること、そうしたことを知るには、それなりの教養を積む必要がある。日常の生活では、ちょっとした思いつきやあやまりやまちがったことやそれに類すること、さらにまた、退化して消えていくような存在までが、なんでも、目につくままに「現実」と名づけられる。しかし、日常の感覚からしても、偶然の存在は、あえて現実的と呼ぶには当たらない。偶然の存在とは、可能な存在という以上の価値をもたず、あってもなくてもよいものなのだ。わたしが「現実」というとき、わたしがどんな意味でそのことばを使っているのか、よく考えてもらいたい。わたしの精細な『論理学』(一八一二~一六)では「現実」という概念もあつかわれていて、「現実」は、存在の一角を占める偶然的なものから区別されるだけでなく、「そこにあるもの」や「げんにあるもの」などからも厳密に区別されている。

理性的なものが現実的だという考えは、理念や理想が幻想にすぎず、哲学はそうした妄想の体系だという考えと対立するだけでなく、逆に、理念や理想は高貴にすぎて現実に降りてこられない、とか、無力にすぎて現実へと至りつけない、といった考えとも、きっぱりと対立する。ところが、おのれの抽象観念の夢を真なるものと見なし、「こうあるべきだ」という発想を、とりわけ政治の分野で振りかざして得意になる分析的知性ときたら、現実と理念とを切り離すことが、とくにお気にいりなのだ。世界が分析的知性に期待しているのは、世界がいかに「あるべきか」を経験することで、いかにあるかの経験ではない、といわんばかりだ。あるべきすがたが現実のものとなったら、こましゃくれた「あるべき」はどうなることか。一定期間、特定の場所で、相対的に重要な意味をもった、些細で、外的で、はかない対象や制度や状態にたいして、「こうあるべきだ」を対置するのは理にかなっているし、その場合には、正当な一般観念に合致しないものが数多く見いだされもしよう。身のまわりを見わたして、あるべきすがたを現実にとっていないものをあれこれ見つけるぐらいの賢さは、誰にでも備わっている。が、そんな対象やそんな「あるべき」が哲学的な関心領域にまで通用すると考えたら、それはとんだお門ちがいというものだ。哲学のあつかう理念は、「あるべき」ものにとどまって現実にあるものとならないような、そんな無力な理念ではないし、哲学のあつかう現実はといえば、永遠の理性につらぬかれた現実である。些細で、外的で、はかない対象や制度や状態と見えるものは、たんなる表面的なありさまにすぎない。(ヘーゲル『論理学』五一~五三頁)

現実と思考ないし理念とを俗っぽく対立させるのは、よくおこなわれるところです。そして、その対立を踏まえて、ある思考が理にかなって正しいことにはなんの異議もないが、ただ、その思考は現実的ではないし、現実に実行できない、といういいかたがよくなされる。が、そんないいかたをする人びとは、自分が思考の本性も現実の本性も的確に把握してはいないことを証明しているだけです。右のいい草では、思考は、主観的な想念、計画、意図などと同義とされ、現実は、外的で感覚的な実在と同義だとされています。カテゴリーの使いかたや表示のしかたがいい加減な日常生活では、まあそれでもよく、たとえば、一定の税制計画、ないし、税制のいわゆる理念が、それ自体ではまったくよくできていて目的にかなっているが、いわゆる現実には合わず、あたえられた状況のもとでは実行できない、ということもあるかもしれない。が、抽象的・分析的な知性が二つの規定をとらえてそのちがいを強調し、現実と思考のあいだにはどうにもならない対立があるから、現実の世界では理念を頭からたたきださねばならない、というとき、その考えは、学問と健全な理性の名において、断固として拒否されねばなりません。まず理念だが、理念はわたしたちの頭のなかに隠れているだけのものではまったくなく、また、それ自体はまったく無力で、それを実現するかどうかはわたしたちの胸先三寸にある、というのでもなく、むしろ、みずから実現へとむかう現実的なものであるし、他方、現実は現実で、思考を欠いた実践家や、思考が苦手で思考は落第の実践家が勝手に想像するような、そんなくだらない非理性的なものではない。たんなる現象とは区別される現実は、内と外の統一体として、理性の反対側にあるようなものではなく、徹底して理性的なものであって、理性的でないものは、もうそれだけで現実的なものとは見なされないのです。その意味で、たとえば、すぐれた理性的な仕事をなしとげられない詩人や政治家を、現実的な詩人ないし政治家とは認めない、といった教養人は、現実という語の用法をよくわきまえているということができます。

ここに述べたような通俗的な現実のとらえかたに加えて、手にとることができ、直接に知覚できるものと現実とが混同されることにもなると、それは、アリストテレス哲学とプラトン哲学との関係についての、広く行きわたった先入見の原因ともなる。その先入見によると、プラトンとアリストテレスのちがいは、前者は理念を、理念のみを真理だと認めるのにたいして、後者は、理念を捨てて現実に即(つ)き、それゆえに、経験主義の創始者ないし唱道者と見なされる、という点にある。その際、注意すべきは、現実がアリストテレス哲学の原理をなすのはたしかだが、その現実は、直接目の前にある卑俗な現実ではなく、理念が現実となったもののことだという点です。アリストテレスがプラトンに異を称えたのは、プラトンの理念(イデア)がたんなるデュナミス(潜在態)でしかないことにたいしてで、二人がともにそれだけが真理だと考える理念は、その本質からして、エネルゲイア(顕在態)―内なるものがそのまま外に出たもの―でなければならず、内と外の統一体でなければならない。それが、アリストテレスのいわんとするところです。わたしたちのいう強い意味での現実とは、アリストテレスのエネルゲイア(顕在態)に相当します。(ヘーゲル『論理学』三一一~三一二頁)

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コメント / トラックバック1件 to “ヘーゲルの哲学を読む2―「現象」と「現実」の区別について”

  1. Shota Maehara said

    ヘーゲルが単なる「現象」と「現実」を厳密に区別して論じていることは重要である。ここから法哲学の有名なくだり、「現実的なものは理性的であり、理性的なものは現実的である」を考えてみなければならない。ヘーゲルにとって「現実」とは本質が顕わになったようなものであろう。おそらくマルクスであれば恐慌の危機において、資本主義の本質=現実が顕わになるというだろう。

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