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Shota Maehara's Blog

一八四八年の同時代性―カール・マルクスとセーレン・キルケゴール、そしてふたたびカントへ

Posted by Shota Maehara : 10月 5, 2011

一九世紀における時代閉塞の現状に対して、共産主義者のマルクスとキリスト教者のキルケゴールは別様の答えを出したように見える。前者はプロレタリアートの団結を呼びかけ、他方、後者は真に神の前で一人の個人になりきる決断を説いたからである。しかし、哲学的にとらえれば、両者の「プロレタリアート」と「キリスト者」の位置づけは非常に近いことに気づく。いずれも、逆説的に、社会の中から完全に排除され、残余でしかなくなった者だからこそ、はじめて普遍的な立場に立てるのだという理論構成になっている。

これはカントを通して見ると分かりやすい。カントは理性の私的使用と公的使用の意味を通常とは逆転して用いている。例えば、普通は一国の国務大臣は公人と呼ばれ、対して民間人は私人と呼ばれる。しかし、理性の使用という観点から見れば、いささか事情が違ってくる。なぜなら、一国の国務大臣はあくまで自国の国益を優先して考え行動するという意味で私的であるのに対して、一個人は自らの理性を世俗的なしがらみを断って普遍的な世界市民的な観点から使用できるという意味で公的であるからだ。

こうした見方からすれば、社会のあらゆる紐帯から絶縁された(uncoupling)者こそ、まさしく、プロレタリアでありキリスト者であり、残余である彼ら、この地球上のエイリアン(異邦人・寄留者)であるような存在の彼らだからこそ真に普遍的に思考し、普遍的な利益のために行動することができるのである。

※一応ここまでの意見ならば認めてもよい。ただし、教育もない者が果たして理性を正しく使用できるのかは未知数であるし、真に神の前で単独者として立ち、神の声を聴く事ができるものが何人いるかもわからない。むしろ、いかにそれができるのかこそわれわれが考えなければならない探求の場であると思われる。

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