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Shota Maehara's Blog

善悪の彼岸について―畜群道徳への批判と未来の哲学者

Posted by Shota Maehara : 9月 20, 2011

岩波文庫版の帯にはこうある。「ニーチェ(1844‐1900)はキリスト教的道徳のもとに、また民主主義政治のもとに「畜群」として生きつづけようとする人々に鉄槌を下す。彼にとって人間を平等化、矮小化して「畜群人間」に堕せしめるのはこれら既成の秩序や道徳であり、本来の哲学の課題は、まさにこの秩序・道徳に対する反対運動の提起でなければならなかった。 」と。

同様の箇所を、第五章「道徳の自然誌のために」から引用しよう。

「民主主義の運動はキリスト教の運動の遺産なのだ・・・われわれは一つの別の信仰をもっている。―このわれわれにとっては、民主主義の運動は単に政治的機構の一つの頽廃形式と見られるだけでなく、むしろ人間の頽廃形式、すなわち、人間の矮小化の形式と見られ、人間の凡庸化と価値低落と見なされる。われわれはどこへわれわれの希望をつながなくてはならないであろうか。―新しい哲学者だ。」―フリードリッヒ・ニーチェ『善悪の彼岸』

ここから彼はあらゆる価値の価値転換をこの新しい哲学の使命として提唱していくわけだが、果たして我々はニーチェと同様に、民主主義とキリスト教への批判へと進むべきであろうか。おそらく否である。自らの命をも死の危険にさらす事も含むいわゆる「力への意志」は現代の閉塞状況を突破する一つの解答ではあろうが、それは一つの悪魔を別のもっとたちの悪い悪魔によって追い出すだけにならないとは限らない。それは後のナチス・ドイツの台頭の歴史が証明している。

おそらく本質的な答えは、ニーチェが見ていたところとは別の所にある。ニーチェが批判していたキリスト教とは別の可能性、すなわちイエス・キリストそのもののなかに。なによりも哲学的にキルケゴールが解明しようとしたキリスト教のパラドックス(直接伝達の不可能性、質的飛躍、躓きの可能性)のなかにである。私は信仰者としてこの遺産を受け継ぐ者である。

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