I am the vine; you are the branches

Shota Maehara's Blog

神なき時代の信仰をめぐって―ポストモダンのニヒリズムからの決別

Posted by Shota Maehara : 9月 12, 2011

信仰は危機意識から生まれる。すなわち時代に対する危機への予兆を感じ取ると同時に、理性自身の批判的な眼差しによって、自らの認識の限界に身をさらし続けること。他者からの声を待ち続けること。それが信仰である。

そこには恐ろしいまでの謙遜さが要求される。なぜならば、人間の義はつねに偽りであり、神の義こそが正しいものであるからだ。しかし、神の義に立つことは、この世的な人間にとって不可能だ。我々に唯一可能なのは、偽りの人間の義を否定すること、そしてその瞬間に立ち昇る神の義の破片を集めることだけである。

我々は今日のニヒリズムの危機において、もう一度神に従うか、人に従うかの二者択一に直面するだろう。ここに「あれもこれも」(ヘーゲル)という選択肢はありえない。ただ、「あれかこれか」(キルケゴール)があるのみである。今や我々は信仰だけでなく、人生を肯定的に生きるための信念までも失ってしまったように見える。しかし神の導きによって、自ら世界を変えることは可能なのである。そう信じて、一歩先へ歩め出さなければならない。

魯迅が言ったように、希望とは道のようなものである。それはあるとも言えぬし、ないとも言えない。ただ、そこを歩く人が多くなればそれが道になるのである。信仰もまた然りである。物質主義的な時代に染まった感性には見えにくくなっている、精神や観念の力をもう一度認識する必要がある。

ドイツの哲学者カール・マルクスは有名なフォイエルバッハ・テーゼの中で、つぎのような言葉を残している。「哲学者は世界をさまざまに解釈してきた。しかし、大事なことは世界を変えることである。」この言葉は実に多くの誤解を生んできた。大事なのは考えることではなく、行動することであるなどと。

しかしこの言葉は、思考におけるダイナミズム(運動性)を表現したものとして受け止められなければならない。例えばハイデッガーは動物は環境しか持たない。人間だけが意味に満ちた世界をもっていると述べている。その意味で我々が見ている世界は、機械のレンズを通したモノクロではない。また同一で単調の映像ではない。網膜に映じた無限の風景は、言葉を通して表象される。それが私たちの生き方を大きく規定している限り、それを精神や認識の力において変えていくことは、すなわち世界を変えることなのだ。

かくて我々現代人が欠けているものは、こういった目に見えない「信念」(精神、悟性、理性、信用、信仰、愛、希望、ユーモア)の力ではないだろうか。この終局の時代に抗して、次の世紀を生き延び得るのかは、この信念の力を取り戻すこと、この一点にかかっていると私には思われるのである。

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中