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Shota Maehara's Blog

ニーチェが予言した「ニヒリズム」の到来をめぐって

Posted by Shota Maehara : 9月 6, 2011

“私が物語るのは、次の二世紀の歴史である。私は、来るべきものを、もはや別様には来たり得ないものを、すなわちニヒリズムの到来を書きしるす。”―フリードリッヒ・ニーチェ『権力への意志』(原佑訳)

今、我々の暮らす現代社会とはいかなる社会なのかということについて考えてみたいと思います。私自身、様々な知り合いから今の10代、20代の若者が一様に目標もなく、無気力で、ただ生きているだけにさえ見える。どうしたらいいのだろうかという相談を受けることがありました。その都度、この問題に関して民主主義や精神分析や宗教などの観点から考えてきたわけですが、いまだ本質的な部分を言い当てていないように感じてきました。

時代背景を少し整理したいと思います。1968年のパリ五月革命以後、ヒューマニズムをはじめとする普遍的な価値が疑われはじめ、79年にはリオタールによって『ポストモダンの条件』が出版されました。これは近代の終わりを決定づけた書物です。彼によれば、ポストモダンとは「大きな物語の終焉」を意味しました。これは「ヘーゲル的なイデオロギー闘争の歴史が終わる」と言ったコジェーヴの強い影響を受けた考え方でした。例えばマルクス主義のような人類の解放と言った壮大なイデオロギーの体系(大きな物語)は終わり、高度情報化社会においてはメディアによる記号・象徴の大量消費が行われる、とされました。この考え方に沿えば、”ポストモダン”とは、民主主義と科学技術の発達による一つの帰結と言える、ということでした。

さらに1990年代にアメリカの学者フランシス・フクヤマは同じ流れで、『歴史の終わり』という書物を出版しました。それは、やはりコジェーブの歴史哲学の強い影響の下、世界でイデオロギー対立が終り、今やリベラル・デモクラシーが勝利したと宣言したのです。そして今後経済的な領域で様々な問題が起こるとしても、基本的にはこの枠内での出来事になるだろうと述べたのです。ただし、この夢は2001年9月11日のアメリカ同時多発テロによって脆くも崩れ去ることになるのですが。

こうした流れの中で、日本は徐々に格差社会の様相を強めてきました。私も含めて多くの学者や批評家や評論家が様々な理念を苦し紛れに提示してきました。まず右派の論陣は、伝統やナショナリズムに回帰することを通じて、人々に生きる価値や意味を与えようとしました。地域社会や家族の役割の重要性を強調することはこうした保守の流れと見ていいでしょう。次に、左派の論陣は、憲法九条を守ることを通して、恒久平和を実現すべきこと、また25条にある生存権に基づいて、最低限の文化的な生活を営めるように派遣労働者などを守るべきことを訴えています。ただどちらもともに彌縫策にとどまっている感が否めない。なぜなら、それがどんなに素晴らしい理念だったとしても、真のオルタナティブ(コミュニズム)ではなく地域、家族、平和、セーフティネットなどは過去のネガの焼き回しにしか見えないからです。

では、我々はなぜ答えを見いだせないのでしょうか。ここで多くの人々は気づき始めているのではないでしょうか。そうです、問いそのものが間違っているのです。ポストモダン(近代以後)とは、単に近代の最終的形態であり、それこそニーチェがニヒリズムの到来として予言したものなのです。

 私が物語るのは、次の二世紀の歴史である。私は、来るべきものを、もはや別様には来たりえないものを、すなわちニヒリズムの到来を書きしるす。この未来はすでに百の徴候となってあらわれており、この運命はいたるところでおのれを告示している。未来のこの音楽にすべての耳がすでに耳をそばだてているのである。私たちの全ヨーロッパ文化は長いことすでに、十年また十年と加わりゆく緊張の拷問でもって、一つの破局をめざすがごとく、動いている、不安に、荒々しく、慌てふためいて。あたかもそれは、終末を意欲し、もはやおのれをかえりみることを怖れている奔流に似ている。(フリードリヒ・ニーチェ『権力への意志』序言、原佑訳)

では、ニーチェによれば「ニヒリズム」とはどのような現象を言うのでしょうか。

 ニヒリズムとは何を意味するのか?―至高の諸価値がその価値を剥奪されるということ。目標が欠けている。「何のために?」に対する答えが欠けている。(同書)

ニーチェにとって、そうした至高の価値を支えていたものとは、キリスト教やプラトンの形而上学であり、その根底にある奴隷(弱者)の道徳でした。それゆえに「神(真理)は死んだ」と宣言することによって、道徳という支えを失った人々の最終的帰結としてのニヒリズムをあらゆる領域において見出していくのです。

スロヴェニアの哲学者スラヴォイ・ジジェクが『暴力』で指摘するように、我々が今直面しているのは、消極的ニヒリズムとしてのリベラルで寛容な社会に生きる無気力な先進国の人々と、積極的ニヒリズムとしての最底辺の人々や宗教原理主義者の暴力の噴出なのです。彼らに共通することは本当の意味で、生きるための目的、大義が失われているということです。実は、原理主義者の根底にあるのもは神ではなく、豊かな人々へのルサンチマンです。その証拠に、彼らは同国人が西側の商品を扱う店をしばしば襲撃します。その意味で、彼らはすでにグローバルな資本主義経済によって西側の文化や価値観に包摂されていると見るべきでしょう。過去の衣装は、つねに現在の構造の中から遡及的に見出されるものなのです。例えば、イギリスの歴史家エリック・ホブズボームは『創られた伝統』でナショナリズムの虚構性を暴き出しています。

こうして見てくると政治的対立軸を失った我々の社会は一見すると「ポスト・イデオロギー」の時代であるかのように思えなくもありません。しかし、イデオロギーがないということ自体が今日のイデオロギーであるとしたらどうでしょう。我々はこれにどう抗ったらいいのでしょうか。我々はメディアが報じるイデオロギーなき世界の過剰暴力の前にただ立ち尽くすしかないのでしょうか。

イデオロギーとはあたかも空気のようなもので、それが最も機能しているときほど我々には自明に見えてしまいます。だから今日ほど、このイデオロギーへの仮借ない批判が求められている時代もないと思われます。このための方法は二つあります。一つは、哲学(人間の言葉)による批判。そしてもう一つは、聖書(神の言葉)からの批判です。どれほど困難であったとしても、ポストモダンと呼ばれるニヒリズムの時代に抗して、積極的かつ肯定的な言葉を見出していく必要性があります。そのために我々がまず取り戻すべきなのは「誠実さ」と呼び得るような、今日欠けてしまった何かであると思うのです。

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