I am the vine; you are the branches

Shota Maehara's Blog

ヘーゲル哲学における反省規定に関するノート

Posted by Shota Maehara : 8月 30, 2011

「……マルクスは貨幣と商品の関係をつぎのようにいっている。

ある人間が王であるのは、ただ他の人間が彼に対して臣下として相対するからである。彼らは、逆に彼が王だから、自分たちが臣下でなければならぬと信じている。(「資本論」)

王(貨幣)は、超越論的なものであるがゆえに王(貨幣)であるかにみえるが、逆にその超越性は諸党派(諸商品)の差異(関係)の消去によって可能なのだ。「価値形態論」における難解な論点は、ボナパルトという一党派が王位につく秘密にすでに示されている。」

 ♦

「彼らは「意識しないが、そう行なう」というとき、実はマルクスはほぼフロイト的な意味で「無意識」について語っている。たとえば、ジャック・ラカンは、無意識は言語と同じように構造化されているといっている。同様に、貨幣形態において消去されてしまう「価値形態」は、マルクスのいうように象形文字なのである。われわれの「意識」には、もはやそれはみえず、その結果だけが映っている。フロイトのいうように、意識するとは音声言語化することだ。われわれが意識するのは、貨幣=音声文字というかたちをとったものだけである。経済学はこの「意識」から出発する。つまり、それが暗黙に貨幣を前提としているといったのはこのことにほかならない。どんな厳密な反省も分析も、すでに形成された「意識」のなかでなされているかぎり、いつも結果と原因とをとりちがえるほかないのだ。

だから、マルクスが価値形態論を人類史においてはじめての試みだと自負した理由もここにおいてみなければならない。(……)
“矛盾”とは、したがってまた“弁証法”とは、すでに生成したものを生成したあとから合理化することでしかない。哲学とは、一種の神経症的な合理化にすぎず、それは貨幣=音声的文字の結果としての「意識」に閉じ込められている。

「無意識」の概念はもっぱらフロイトの名において知られるが、『夢判断』や『ヒステリー研究』において明らかなように、フロイトの関心は「無意識」が一種言語的なものに存するということにあった。≪……このことは、ヒステリー症状が言語表現を手段とする象徴化によって発生することについての決定的な実例だと思われる≫(「ヒステリー研究」)。ラカンが批判したように、精神分析学派がこの視点をまったくみうしなっていったといいうるならば、マルクスの「価値形態論」についてはなおさらそういわねばならない。マルクスは、ここではじめて、貨幣形態=前意識においておおいかくされてしまう象形文字的な様態をとりだしたのだが、のちのマルクス学派においてたんに哲学的なものに還元されてしまった。まさに弁証法をふくめて「哲学」がここで根本的に批判されようとしているのに。」(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』)

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中