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Shota Maehara's Blog

アドルノ・ホルクハイマー『啓蒙の弁証法』に関するノート(2010年)

Posted by Shota Maehara : 8月 30, 2011

アドルノ・ホルクハイマー『啓蒙の弁証法』に関するノート(2010年)

合理論と経験論の間で一方から他方へと批判するのがトランスクリティークならば、アドルノは合理論(イデア論)の仮借ない批判者で、後のハーバーマスは、その合理論を経験論(コミュニケーション論)で超えられると思ってしまった。しかし、それはカントの「倫理」(理性の自律)や永遠の「自己啓蒙」という理性のとらえ方を超えていない。つまり、フロイトの「超自我」をも超えるものではない。

感情に対して理性の優位を説く合理主義者は、結局、理性に対して無意識の優位を説くロマン主義者の二元的な回路の中にあり、まして理性の名のもとに他を抑圧する傾向がある。それはまるでメビウスの輪のように、「文明」は「野蛮」に反転するものとなる。

それを防ぐ唯一の手立ては、理性の働きを上から抑制する「超自我」(トラウマ的もしくは身体的な過去の失敗の記憶)であり、いいかえればそれは啓蒙主義に対しても徹底して啓蒙的たろうとする「理性」の働きに他ならない。

啓蒙主義以後、現代は感情が生み出す未開人の対立・抗争ではなく、理性自身が生み出す超越論的仮象、すなわちネーション(ナショナリズム)や宗教の戦争にどう対処すべきかを迫られている。それは、かつての感性による対立などよりも、はるかに野蛮で残忍なものとなる恐れがある。ファシズム、広島・長崎への原爆投下などのように。

【注記】

啓蒙主義-市民社会-自由主義の限界を指摘し、その限界を乗り越えさせてゆくことは可能であろうか。

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