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Shota Maehara's Blog

信仰の逆説―“私の力は、弱さのうちに完全に現れる”(ローマ)

Posted by Shota Maehara : 8月 16, 2011

日本のキリスト教会で礼拝に参加させていただいている折、熱心な信者の方からよくこんな話を耳にする。世界のキリスト教会の中で、日本は未伝地とされている。つまり、いまだキリストの福音が宣べ伝えられていない土地であるということだ。その証拠に隣の韓国と比べて、日本のクリスチャン人口は全人口の1%以下しかいない。一体どうしたら、日本人の中にキリストの福音を伝えていくことができるのか、というのである。

確かに、聖書の中には一人でも多くの人がキリストの教えに触れて、回心し、滅びの道を歩むことのないようにと諭されている。事実、パウロの頃より、キリスト教は本質的に伝道宗教であり、異邦人に対して福音を伝えていくことを普遍的な使命と考えている。その意味で、日本のキリスト教団の兄弟姉妹の方々が布教に取り組んでいらっしゃるその熱意と努力には深い敬意を感じている。

しかし、私は本当に多数派であることが素晴らしいことであるとは一概に言えないのではないかとも思っている。例えば、アメリカ合衆国を考えて見よう。堀内一史著『アメリカと宗教―保守化と政治化のゆくえ』(中公新書、二〇一〇年)によれば、アメリカは超近代的な高度な科学技術と資本主義経済の大国というイメージとは裏腹に、同時に前近代的とも言えるほどの宗教大国である。まず総人口の約八割はキリスト教徒である。次に、九二%の人が神や霊魂の存在を信じている。さらには「天地創造」を全面的、あるいは部分的にせよ信じている人が六三~八二%いる一方で、「進化論」を支持し、人間の進化に神の関与を否定する人はわずか一四~二六%しかいない。そのアメリカでキリスト教原理主義が勢力を拡大し、ネオコンや、ブッシュ政権を生んだのだ。

ある民族や社会の中で主流になるということは、権力をもつということである。当然その使い方を誤ればその国を間違った方向へと導く。何よりも、主イエス・キリストの福音から離れてしまう恐れがある。かのエルサレムでキリストはつねに社会的に疎外されたもの、弱きものの味方であったからである。

それに対して、マイノリティ(少数派)であるということは一見弱点のようにも思われるが、そこからしか見えない「真理」がきっとあるはずである。何よりも、権力の中心からではなく、周縁的存在という立場から斜めに国家を批判することはできるはずである。批評性は周縁に宿るのである。また、もし国が方向を誤ろうとするとき、ブレーキをかける存在がいなくてはならない。それこそが主イエス・キリストがこの国のクリスチャンに課した伝道と並ぶ重要な使命だと私には思えてならない。

「わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。(コリントⅡ12:9~10)

この日本という地でクリスチャンであるということは、アメリカのような国でクリスチャンであるのとは全く違った意味を持っている。日本でクリスチャンであり続けることにはマイノリティとしての葛藤があり、社会からの偏見があり、さらには著しく反時代的であることが求められる。しかし、その報いは大きい。なぜならば、キリストが語った真理「弱さのうちに現れる力」とは、まさにそこからしか得られない批評性に宿る力であるといっても過言でないからだ。それならば我々はむしろこの地で少数派であることを誇るべきなのかもしれない。これこそがキリスト教がもつ信仰の逆説なのである。

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