I am the vine; you are the branches

Shota Maehara's Blog

ヴァルター・ベンヤミン「暴力批判論」とともに思考する

Posted by Shota Maehara : 7月 31, 2011

リーマン・ショックに端を発する経済恐慌、東北を中心に東日本を襲った震災とそれに続く福島原発の放射能漏れ事故。あらゆる指標が世界や日本の破綻がまぢかに迫っていることを告げる何者かからの警告ように私には思われる。

このきわめて黙示録的な時代に置いて、私はキリスト教神学の立場から、自分のこれまでの思考を再構成したいと考えている。その中でも、世界資本主義における、隣人(=他者)と暴力に関しては目下最大の関心を払っている。この流れで、ポスト近代資本主義に生きる我々を取り巻くイデオロギー状況をはっきりさせる必要があると考えている。そのうえでシステムに対する対抗運動の可能性が練られていくべきだと。

本書はこうした問題認識をもったわたしを常に引きつける思考の試金石とでも呼べる一冊だ。ベンヤミンの思考は常に切迫した危機意識に支えられ、それゆえラディカルである。帯にある「神話的暴力が法を措定し、神的暴力は法を破壊する」の一文だけでも私を限りない思考にいざなう力に満ちている。

広告

コメント / トラックバック3件 to “ヴァルター・ベンヤミン「暴力批判論」とともに思考する”

  1. odaira tamio 小平 民生 said

    「個人と対立して暴力を独占しようとする法のインタレストは、法の目的をまもろうとする意図からではなく、むしろ、法そのものをまもろうとする意図から説明されるのだ。法の手中にはない暴力は、それが追求するかもしれぬ目的によってではなく、それが法の枠外に存在すること自体によって、いつでも法をおびやかす。(…)「大」犯罪者のすがたは、かれのもつ目的が反感をひきおこすばあいでも、しばしば民衆のひそかな賛歎をよんできたが、そういうことが可能なのは、かれの行為があったからではなくて、ひとえに、行為が暴力の存在を証拠だてたからである。」(ベンヤミン「暴力批判論」13p)。これをデリダは、次のように読解する。「こうして法権利は、まさしく自分の利益・関心(インタレスト)のために暴力を独占する。(…)この独占がめざすのは、正義にかないかつ合法的なさまざまな特定の目的を保護することではなくて、法権利そのものを保護することである」。この二人の発言から、萱野稔人氏はこう警告するのだ。「国家が他の暴力を取り締まるからといって、それを正義の実現だとかんがえてしまう素朴な発想はやめになくてはならない」と。「国家がまずあるのではなく、暴力の行使が国家に先行する」。デリダの一周忌の言葉にかえて。

    • Shota Maehara said

      小平 民夫さん、コメントいただきましてありがとうございます。ご指摘は至極もっともだと思いますし、同感です。しかし、ここがベンヤミンやデリダの思考の核心でないような気が私はしています。(萱野稔人さんはどうかわかりませんが)。民夫さんはどうお思いでしょうか。現代の暴力には、単なる力の行使としての暴力と、国家(=法)創設的な暴力(神話的暴力)と、国家(=法)そのものを破壊する暴力(神的暴力)の三つの次元があります。私は便宜的に、これらをキルケゴールの美的段階、倫理的段階、宗教的段階と対応させています。この点について現代の哲学者で独自の考えを提示しているのはスラヴォイ・ジジェクだと思います。ただし、彼は現代の貧困層が興すアクティング・アウト(目的のない暴動)から始まって、パウロやキルケゴールを引きながら、愛(=アガペー)するがゆえの暴力というオウム真理教のような結論を出しているように見えます。それゆえ私は彼のキリスト教解釈と同様、刺激的ではあるものの、ここでも疑問なしとすることはできません。明らかに、ベンヤミンがいう神的暴力の次元は、神学的なテーマなので哲学的にのみ考えてもあまり生産的ではりません。私は、現在この暴力論の角度から研究を進めてはいませんからいい加減なコメントは差し控えたいと思いますが、少なくとも「暴力」や「決断」の問題は哲学とキリスト教神学の両方の視点を援用する必要があると思われます。例えば、マルティン・ハイデッガー『存在と時間』、『形而上学入門』、カール・バルト『ローマ書講解』、『国家の暴力について』などです。また、お話しできたら幸いです。

      • odaira tamio 小平 民生 said

        Shota Maeharaさん、コメントありがとうございました。愚生は神学わかりませんが、唯一John Lockeの『統治二論』を研究してました頃、「天に訴える」という表現に出会いました。現代では抵抗権として世俗的に理解されてる表現ですが、世俗的に理解されてる場合、キリスト教神学の世界観を抜きにして語られているのですね。世俗的に理解することは現代への応用としては正当化されても、オリジナルなロック理解としては誤解ですね。この世は神の栄光のためにあるというのがロックの真意であることは加藤節から教えられて目を開かせられた思いがしたのですが、その前提を理解しないとロックを誤解することになります。では現代の暴力はどう考えられるべきなのか。儒教を信じてる者、あるいは老荘を信じてる者にとってこの世界、人間とはなんなのか。そう思うと、貴兄のおっしゃる暴力は、キリスト教、あるいはユダヤ教の終末論、最後の審判、キリストの再臨等を前提しないと理解できないと思います。で、結局、文化人類学的には、キリスト教文化圏内においては神の暴力が人間世界を変える運命にある(?)ということが、文化の基底にあるとすると、スラヴォイ・ジジェクも、そのような文化の影響内にあると思います。ただ、彼の場合、暴力はあるのですが、神はいない。神の代わりにレーニン主義があり、そのレーニン主義の暴力が肯定されるのかな。オウム真理教のお話がでてきましたので、『終わりなき日常を生きろ』(宮台真司)という著作も絶対的なものと日常を扱っていてヒントを与えてくれてるかもしれません。その著作への感想のひとつが右記サイトにありますが、ヒントになりました。http://yamatake.chu.jp/04ori/2cri/13.html 愚生のこの文の結論はまだですが、少なくとも愚生の結論は神の暴力の代わりの人間の暴力ではありませんが、神の暴力を肯定するものでもありません。貴兄の結論は神の暴力の肯定のように見えますがいかがでしょうか。もしそうなら、それはそれでしかたないと思います。

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中