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Shota Maehara's Blog

スラヴォイ・ジジェク『信じるということ』をめぐって

Posted by Shota Maehara : 6月 21, 2011

『信じるということ』(“On Belief”)について

 Adam Kotskoの整理によれば、ジジェクは”The Ticklish Subject”でバディウの『聖パウロ』と取り組んだ後、キリスト教への本格的な取り組みを始め、『脆弱なる絶対』『信じるということ』『操り人形と小人』のキリスト教三部作を書くこととなる。この三部作の中で考えてみる時、『信じるということ』で際立っているのは、ユダヤ-キリスト教と精神分析が教えるとされる「人間であることが「他者性」とのトラウマ的な遭遇に緊密に連関していること」が強調されていることである。『信じるということ』では三つの言及がある。二つだけ引用しよう。

 人間にとっては、トラウマ的な遭遇は普遍的な条件で、「人間になる」過程を生じさせるような侵入である。(…)これが精神分析とユダヤ-キリスト教的伝統の教えである。すなわち、人間固有の使命は、人間に内在する可能性の展開(眠っている精神力、あるいは何かの遺伝子的プログラムを覚醒させる)に依存するのではない。それは外在的なトラウマ的遭遇、理解できない<他者>の欲望との遭遇に引き金を引かれるのである。(p47=邦訳p49 改訳)

私たちの主張はこうだ。すなわち、もしハイデガーがこの[『存在と時間』の超越論的]道筋の上にとどまり、それを終着点まで追求したら、彼の理論的構築物のうちで、彼は根本的なユダヤ-キリスト教的経験のための場所、つまり、人間の本質が根源的な<他者性>とのトラウマ的な遭遇に基礎をおいていること、そしてこの神的な<他者性>自身が人間・人間性をその啓示の場所として必要としていること、このことの経験のための場所を開いただろうということである。(p107=邦訳p115 引用者訳)

 人間性は<他者性>とのトラウマ的遭遇によって生じる。しかし、その遭遇とはいかなるものか。ジジェクは第一の引用でヒントを与えている。つまり、それは理解できない<他者>の欲望との遭遇である。人間は<他者>の欲望ないし享楽とのトラウマ的遭遇によって、人間として立ち現われるのである。これはラカン派の基本的な理解であり、実際ジジェクもその線に沿って、”The Ticklish Subject”では主体の基礎的次元として他者の享楽との遭遇を論じている。しかし、そこにいかにもジジェク的なずらしを見てとることができる。

(http://d.hatena.ne.jp/Gespenst177/20110215/1297760111)

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