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Shota Maehara's Blog

原発批判論―「わかっちゃいるけどやめられない」

Posted by Shota Maehara : 6月 1, 2011

2011年3月11日に発生した東日本大震災に端を発した原発を巡る議論は、今や国論を二分していると言っても過言ではない。政府関係者や大手電力会社は電力不足を理由に原発を推進し、他方において反対派は事故があった時の途方もないコストを理由に、主に人道的見地から反対している。これまでの流れではそれぞれの担い手は前者は右翼、後者は左翼であると一応整理できよう。今回こそ教訓が生かされ、いい方向に現実を変えていくきっかけとなればいいと思う。

しかし、ものを考える人間が行うべきは果してデモ行進だけなのか。これは非常に難しい問題である。これに関して私は2008年のサブプライムショックに対して感じた衝撃を思い出す。確かスラヴォイ・ジジェク氏のインタビューでの発言だと記憶しているが、アメリカのウォール街の金融当事者たちに、もし二年後にサブプライムショックが来ると分かっていたら、どういう行動をとるかと尋ねたとしたら、まったく同じ行動をとると答えるだろうというのだ。

では、なぜ歴史の教訓が学ばれないのか。ここにこそ問題の本質がある。それは彼らの強欲で低劣な人間性に帰されるべきではないことはもちろんだ。むしろ、彼らは親としてや恋人としては心優しい人であることもありうる。だから、我々はマルクスが資本論で商品の価値形態を解明したように考えてみなければならない。

例えばなぜ人は貨幣には内在的な価値がないと知りつつも、実際にはあるかのように振る舞ってしまうのか。同様に、東電の社員も含めて、自分の会社が社会に対して損害を与えていると知りつつも、Noを言うことができないのか。そして、我々もまた、地球環境が危機に瀕していると知りながら、変わらぬ生活を続けてしまうのか。ここからわかるのは単に人間の弱さではなく、今日の文化状況、イデオロギー状況である。

すなわち、我々の社会を取り巻くイデオロギーは「わかっちゃいるけどやめられない」という言葉に要約されるのだ。かつての「知らずに何かをやってしまう」というイデオロギーよりもねじれており、啓蒙することが難しい。それゆえ原発がいかに危険なものであるかを指摘したところで状況は変わらないだろう。きっと彼らの答えは、こうだ。「私たちだって分かっている、でも…。」

私たちは何らかの形で資本主義システムを突破しない限り、永久にこの「でも・・・」につきまとわれるだろう。多くの人は真実が知りたいという。しかし、このシステムの内で生活するかぎり、仮面の下の真実などは存在しない。私たちに必要なのは資本主義に対抗するもう一つの現実を構築することだ。そして、近代の自己中心という認識論的、存在論的布置を打ち破ることである。その意味で、私は今回の出来事が提起している問題は、極めて哲学な問いであるように思うのだ。

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コメント / トラックバック1件 to “原発批判論―「わかっちゃいるけどやめられない」”

  1. 2007年10月の私のブログの記事のcritical horizonさんのコメントからやってきました。
    哲学、政治思想、キリスト教を専門にしていらっしゃるのですね。

    私のほうは、2007年から、さまざまな出会いがあり、既存のパラダイムを越える領域で思考するようになりました。

    原発関連では、政府や東大といったアカデミズムな人たちが嘘ばっかり言っている。言ってきたことを、周知しています。では、ほんとうのことは何か。そのことを突き詰めているのが、私のブログです。

    もし、ご興味があれば、ご覧いただきたいし、あなたのような慧眼な方にコメントを頂戴できれば、幸いです。

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