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Shota Maehara's Blog

イデオロギーは終わらない、ゆえに我々は自由ではありえない

Posted by Shota Maehara : 5月 30, 2011

私の大学時代のゼミのことをお話ししよう。これは私の哲学の出発点とも重なるテーマだ。あるマスコミ志望の学生が次のように発言した。「中国や北朝鮮のような全体主義国家は、統制によって人民をある一定の方向に強制することによって自由を奪っている。それに対して、アメリカや日本のような資本主義国家において人々は自由に考え、選択の自由を享受していて幸せだ」と。彼は卒業後に新聞社に内定した。

これに対して私はすぐさま反論した。「いや、それは違う。確かに一見すると、資本主義社会で暮らす我々の方が様々な選択肢を与えられ、より自由を享受しているように見えるかもしれない。しかし、人々がそうした選択肢のうちいずれが最良の選択かを判断するためには情報が必要だ。そして、その情報はいくつかの支配的メディアによって独占されている。だから、人々は完全に自由ではないし、またありえない。結局は二つの政治経済体制でなされていることはより強引な形か、巧妙に仕組まれているかの違いでしかないのではないか」と。

このゼミでは後にこうした考えを踏まえて、「共産主義ユートピアにおける《自由》」というレポートを提出するにいたったが、もしかするとこれが私の思想的な出発点と言ってもよいかもしれない。この当時私の疑念は、一見自由な選択や行動とみえるものも、実はそうではない。実は、無意識に我々の行動を規定している構造的な力があるのだ。それを解明することこそが哲学の仕事なのではないかということだった。

例えば、パリの精神分析家・ラカンは、「欲望とは他者の欲望だ」と述べた。つまり、ある人がシャネルのバックを買いたいと思っても、実は他人がそれを欲しいと思うからなのだ。また、ドイツの哲学者カール・マルクスはそれをイデオロギーと呼んで分析した。作家の佐藤優氏は、ある対談で、この「イデオロギー」(=思想)について興味深い発言をしている。

「いま、コーヒーを飲んでいますよね、先ほど200円を払った。この、コイン二枚でコーヒーが買えることに疑念をもたないことが、「思想」なんです。そんなもの思想だなんて考えてもいない、当り前だと思っていることこそ「思想」で、ふだん私たちが思想、思想と口にしているのは「対抗思想」です。護憲運動や反戦運動にしても、それらは全部「対抗思想」なんです。」(『ナショナリズムという迷宮』)

そのうえで、彼は漫画『クレヨンしんちゃん』の面白さを語る。実は『クレヨンしんちゃん』は「思想」書なのだという。しんちゃんは鏡であり、私たちの日常に潜む、無意識的な歪みを、キャラクターに託された誇張やユーモアによって見せてくれる。もし一万円あったら何を買おうかな、一流大学に入って、一流企業に就職して…。この集団催眠にかけられて、あたかも空気のようになってしまっていること、これは何なのか。これこそが「思想」である。そして彼はここにマルクスの天才的な洞察力を見る。

もちろん、マルクスはそれを「思想」ではなく、「イデオロギー」と呼んだことは周知であろう。いずれにしても、今日「イデオロギーの終焉」が叫ばれて久しいが、それ自体が今の支配的なイデオロギーであるとしたらどうか。我々は震災や原発事故を通して、いますぐボランティアやデモに積極的に参加することが求められている。それこそが現在の資本主義システムのイデオロギーだと主張したくなるほどだ。ただし、そこで忘れ去られているのは、今我々がいかなる時代に生きているのかということにかんする認知地図(フレドリック・ジェイムソン)である。我々の無意識の行動を規定するイデオロギーを概念的に把握することが哲学者の存在意義(レーゾン・デートル)なのである。

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