I am the vine; you are the branches

Shota Maehara's Blog

現代社会は認知地図を必要としている

Posted by Shota Maehara : 5月 24, 2011

現代は行動の時代である。あらゆる局面で我々はどう行動するかを余儀なくされている。今回の東日本大震災においても、義捐金やボランティア活動などなんらかの形で現状にコミットしない者は非国民だと後ろ指をさされかねない状況だ。非常時にみんなが一丸となって応援するのは日本人として当然だ。

しかし、いや、待て、果たして本当にそうなのだろうか。冷静に考えてみてほしい。例えば今回の福島の原発事故においても多くの国民が東電の隠ぺい体質などを糾弾する。ただやはり、国家全体の問題としてなぜ原発推進だったのかを考えた場合、原子爆弾のための良質なプルトニウムを核実験をすることなく確保するためだという見方ができる。その方が、果たして電力は不足は存在するのか、なぜ、国がそこまで東電の賠償を肩代わりしなくてはならないのかという素朴な疑問に答えてくれるように思う。

我々はもしかすると航海図をもたずに大海原へ旅立とうとしているのではないか。だからというべきか私は近年ますます現状変革の行動にコミットする気が起きないでいる。もちろんそれは私がキリスト教神学と取り組んでいるせいもあるだろうが、それだけではない。むしろそれ以上に我々が一体どんな段階に足を踏み入れようとしているのかを注視しているからである。

私にとって信仰とは、心を尽くして、思いを尽くして、知性を尽くして、力を尽くして神を愛せよとある通りである。したがって、聖書と祈り、また政治哲学や経済理論、精神分析、そしてビジネスの現場での経験を含むと同時に結局それらは一つのものである。現代は自らの認知地図を欠いている。そして、何より、「他者」の外部性が欠けている。これを取り戻す方法は、もう一度哲学を神学をはじめとした、諸科学の中に埋め込み、パラダイムを組み替えるしかない。

かつて、フランスの哲学者ルイ・アルチュセールは、こういった。「科学者は最悪の哲学を選びがちである」と。数理的に精緻な、しかし思想的にナイーブな現代社会に対して哲学者が取り組める仕事は、たんに行動することではなく、考えることである。つまり、現状を把握し、未来への展望を開くことである。実践の契機とは、そうした理論の裂け目にこそ存するのである。

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中