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Shota Maehara's Blog

パウロと福音主義神学

Posted by Shota Maehara : 4月 27, 2011

パウロはローマへ赴く前に、現地の信徒たちに宛てて一通の手紙を記している。帝国の都ローマにいる信徒たちに、キリスト教信仰の真髄をしっかりと知ってもらう必要があると考えたのである。

彼はその手紙のなかで、わけても人間の救いについて、次のように論じている。

「人は、正しい行いを積むことによって、神の義と認められて救いに導かれるのではない。人が神の前に義と認められるのは、ひとえに神の子イエス・キリストを信じることによる。律法を守り行う者は、かえっておごり高ぶることになりかねない。しかし、イエス・キリストに現された神の義は、律法を守れない者にも、律法を知らない者にも、救いの可能性を開いたのである。神の子であるイエス・キリストが十字架につけられた意味は、ここにある。これを信じ、これを受け入れるとき、人は無条件で義とされる。神の前には、ユダヤ人と異邦人の区別も、奴隷と主人の区別も、男と女の区別もない」

このようなパウロの主張は、当時のユダヤ教とは真っ向から衝突するものであった。そのため、ユダヤ人およびユダヤ主義的キリスト教徒のなかに、パウロに憎悪と敵意を抱く者がいても不思議はなかった。

信仰をともにする教会の共同体であっても、多くの人が集まればさまざまな問題が生じてくる。彼がしばらく滞在したことのあるコリントの教会は、パウロが去ってのちしばらくすると、信仰の立場の違いや人間関係における対立のために、互いに一致できない状態が続いていた。 そこでパウロは、コリントの信徒たちに宛てて複数の手紙を書いている。

「神の子であるイエス・キリストが受けた十字架という恥辱に、神の栄光の力が現された。キリストの福音はそこに始まる。信仰の原点もそこにある。 それゆえ信徒は、みずからを誇ってはならない。人間は『土の器(うつわ)』にすぎないのである。だが、イエス・キリストを神の子と信じるとき、十字架に現された神の力が『土の器』を突き動かす」

パウロはその力を「愛の働き」と言い表し、コリントの信徒に向けて、次のように書き送っている。

「人が並はずれた能力を持ち、賞賛に値する行為を果たしても、そこに愛がなければ無に等しい。愛こそは人を謙虚にし、信仰に導き、希望を抱かせる。知識は、いずれすたれよう。永続するのは信仰と希望と愛である。そのなかで、最も偉大なものこそ愛である」

この言葉は、生涯結婚しなかったパウロが、後世の全人類に向けて残した「愛の賛歌」である。

(ウィキペディアから引用)

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