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Shota Maehara's Blog

他者へ―「見る」哲学と「聞く」神学

Posted by Shota Maehara : 3月 23, 2011

人間は孤独の自我として自己中心的に生きる存在ではない。むしろ人間イエスが隣人であることが、人間の本質を形成するのである。それゆえわれわれは、神との交わり、イエスとの交わりの背後に人間の本質を求むべきではない。すなわち人間はまず独りで存在し、時に神との交わりの中に取り入れられ、また孤独の存在に戻ると考えるべきではない。なぜなら孤独の存在が不変の状態(Zustand)であり、その特殊の様態(あり方)だけが神との交わりによって影響されると考えることは、人間の本質、人間の根本構造そのものを変えるキリストの出来事を理解するのに相応しくない思考形式であるからである。

詳言すると、神と人間との出会いは、神が人間の堅い殻を打ち破るとき、真の意味で生起する。これは、他者に対して自己を開く人間に変えることであり、古来の思考形式の殻を打ち破ることを意味する。古来、哲学は見ることを本質とするが、この場合、人間は自己の中にとどまっているわけである。ところが、他者の言葉に聴従することは、自己の中心を他者に明け渡すことであり、他者の言葉が自己の存在根拠となることである。これがキリストの出来事の本質であることは言うまでもない。反面、見る立場を堅持する傍観者と対象の間には、真の出会いは生起せず、われわれは影の人間、空虚な人間にとどまるのである。

われわれがイエス(隣人)のために生きるということは、閉ざされた心が聖書の言葉によって開かれて、神の言葉がわれわれの心を占領することである。これが神の言葉によって呼び出されることであり、創造の真の意味である。ところがアダムの堕落により、われわれは自閉的な影の人間に転落したのである。神の言葉は、この空虚な人間、非本来的人間を再び真に実在する人間、本来的人間に変え、神との交わりの中に呼び出すのである。そして神によって呼び出される時、われわれは自己を超越し、神の歴史の形成に参与するのであるが、これが正統神学の「生まれ変わること」「新たに生まれること」の核心である。―大島末男『カール・バルト』(清水書院、一八〇~一八一頁)

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