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Shota Maehara's Blog

きみは何によって憶えられたいか

Posted by Shota Maehara : 2月 24, 2011

アメリカの「マネジメントの父」と呼ばれるピーター・ドラッカーが自著の中で、彼が13歳のとき、宗教の授業で牧師の先生から投げかけられた問いについて触れている。それは次のようなものである。すなわち、「きみは何によって憶えられたいか」(What do you want to be remembered for?)という言葉である。私はこの言葉を思い出し、もう一度自分に問いかけている。

もしかすると、これは一見すると単なる自己啓発や自己実現の言葉にも取られかねない。しかし、ドラッカーは、おそらく、ここに自分の持てるわずかな資源(能力、寿命、体力)をどの一点に集中し成果を挙げるべきかというマネジメントの観点からこれを問うている。なんとなれば、自分自身をマネジメントすることこそあらゆるマネジメントの出発点であり、そして、天才と言えどその能力を漫然と用いればどんな成果も上げることはできないからだ。

では、なぜここまで近年、みずからをマネジメントすることが多くの人々に求められているのだろうか。

おそらく、それは私たちの社会が、人類史上かつてなかったほどに自由で、多様であるからであろう。私たちは、住む場所、学校、職業、結婚などについて信じられないくらいの多くの選択肢を前にして立ち止まる。その洪水の中で、一部の人は眩暈を感じ、あれこれに手を出したり、あるいは逆に、どれも決められずに茫然としてしまうかもしれない。

だから、私もそうであるように、きっと人は人生の軸となるものを心のどこかで求めているのではないだろうか。したがって、ドラッカーは、その指針を「マネジメント」という概念を生み出すことによって人々に与えようとしたのだと言えよう。

しかし、私はこうも思うのだ。「きみは何によって憶えられたいか」という先の言葉の持つ意味はもっと深い。なぜならば、この言葉が牧師の方の口を通して語られているからだ。つまり、私たちクリスチャンにとって、「きみは何によって憶えられたいか」という言葉の背後には、どうしても「神の目から見て」という超越的な視線を感じるからである。

さらに、それは明治の偉大なキリスト者であり、教育者でもあった内村鑑三が著した『後世への最大遺物』の中の一節を連想させる。すなわち彼は言う、どんな人でもあとに残せるものがある。それはお金でも、事業でも、思想でもなく、「自分の生き方」だと。かくして、自分のまっすぐ歩んできた生涯こそが「後世」の人々を鼓舞する最大遺物なのだだとしてこの信仰の書は締めくくられているのである。

ここで「神の目から見て」という超越的視点は、「後世」という地上的(内在的)な視点と交わる。私は悪戯に宗教を礼賛しようとは思わないが、かといって宗教は無価値だという風潮にもくみしない。なぜなら本当に現実世界に影響を与える行動は、このようなある種の信仰に根ざしているものであるからである。また逆に、行動のない信仰というものもありえない。信仰と実践は必ず交わる。私はそう信じている。

自分は今、何によって憶えられたいのか。そう考えると、はなはだ心もとないイメージしか浮かばない。しかし、この問いを問い続けていくことによって私自身の主イエス・キリストへの信仰を実践し、また具体化するために自分のなせることからはじめてきたいと思っている。

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