I am the vine; you are the branches

Shota Maehara's Blog

「汝殺すことなかれ」―「顔」の倫理性

Posted by Shota Maehara : 12月 19, 2010

◆鷲田清一, 20061129, 「〈顔〉、この所有しえないもの」鷲田清一編《夢みる身体 (身体をめぐるレッスン1)》岩波書店:221-248.
(pp231-232)
 この裸のまなざしの接触は、真正面からは起こらない。一方がまなざしを向けるやいなや他方が消え入るか、一方が他方を押しのけるというかたちでしか起こらない。ときに、双方が眼を伏せた瞬間に、その瞬間にのみ、〈顔〉のかりそめの深い接触が奇蹟のように起こるということも、たぶんある。
 他者の顔はわたしに切迫してくる。こちらに眼を向けよと、わたしのまなざしを、いや、わたしの〈顔〉を召喚しにくる。それほどの強度を〈顔〉の現われはもつ。〈顔〉は執拗なものだ。眼を伏せても追いかけてくる。
 けれども、〈顔〉はまた儚いものである。すぐに消え入るような脆いもの、傷つきやすいものである。E・レヴィナスの言葉を引けば、それはむしろ「羞じらい」としてある。
 顔は切迫してくる(simposer)が、それを見つめる視線を前にしてすぐに身を退ける。これをレヴィナスは〈顔〉の撤退(retrait)と呼んだ。それは対象となることを拒む。〈顔〉は壊れやすいものだからだ。視線が、見返す眼が、〈顔〉を壊し、歪める。顔面として現われているときに〈顔〉は消失する。かぎりなく近くにありながら、まさにそのときにもっとも遠ざかり、もっとも隔てられているというこのもどかしさを経験したことのないひとなど、たぶんいまい。とすれば、レヴィナスのいう「羞じらい」としての〈顔〉とは、消え入ることそのことで現われるものだということになるのだろうか。あるいは、消え入ることそのことの現われだということになるのだろうか。
 そのレヴィナスに、〈顔〉について書かれたある決定的な言葉がある。「顔は内容となることを拒むことで現前する。この意味において、顔は了解し内包することのできないものである」(レヴィナス 一九八九)。〈顔〉は何かとして理解しうるものではほんらいないというのである。わたしが何かとして理解するようなものではそれはなく、むしろわたしではない何かが、その存在を押しつけてくる、あるいは切迫してくる、その〈外〉の経験そのものが〈顔〉だというのである。
 「隣人の顔は表象から逃れる。隣人の顔は現象性の欠損にほかならない。とはいえ、隣人の顔が現われないのは、隣人の顔があまりにも不意に、あまりにも乱暴に到来するからではない。ある意味では、現われることさえできないほど薄弱な非現象であるがゆえに、現象「以下」のものであるがゆえに、隣人の顔は、現われることなき現象性の欠損にほかならないのだ。」(レヴィナス 一九九〇)
 「〈顔〉は肖像のような形あるものではまったくありません。〈顔〉との連関は、絶対的に弱きものとの連関であると同時に、絶対的な仕方で外に曝されたものとの連関です。」(レヴィナス 一九九三)
 〈顔〉は、見える形、読まれる形という媒介なしに、それの彼方からみずからを突きつけてくる。が、その突きつけてくるものはあまりに薄弱なものである。いいかえると、それは現われすらしない。現われかけては撤退してしまうものである。それは、はすかいに、ちらちら、ほの見えるしかない。じっとまなざすことのできないものなのだ。

http://www.arsvi.com/b1990/9100le.htm

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