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Shota Maehara's Blog

日米比較文化論―褒めることと貶すこと

Posted by Shota Maehara : 10月 28, 2010

1998年に日本でも公開されたアメリカの映画『グッド・ウィル・ハンティング』を見返した。非常に面白かった。とくに虐待された過去ゆえに苦悩する天才的な頭脳を持つ青年(マット・デーモン)と最愛の妻を失った悲しみから癒えずにいる心理学者(ロビン・ウィリアムス)との心の交流がこの映画の最大のテーマとなっている。

今回、見返してみて、一人の人間が立ち直るために、こんなにも多くの仲間や、恋人、そして恩師が彼を応援し、支え、導いていくのだと思った。ここにあるのは人々の愛であった。やはり人間が自立し、独立して行くためには愛に裏打ちされた厳しさが必要なのではないだろうか。人は見かけほど強くない。誰もが心の中に弱さを隠している。それを受け止めてくれる愛があればこそ人は、大人へと成長し、旅立っていけるのだ。

これに限らず少し古いアメリカの映画を見ていると、西欧のリベラルな個人は、このようにして他人の人格、たとえそれが子どもであっても、を尊重することから生まれてくるのだとしばしば思う。

しかるに、日本の現状はどうだろうか。私は、どうも現代の我々は他人を貶すことばかり覚えて褒めることを忘れてしまったのではないかと思えてくる。日本人は同質的な集団の中で暮らしてきた時代が長いからか、どうも自分たちと異質なものを排除しようとする性質が強い。それは日常の対人関係においては、他人の長所よりも短所に注目し、批判するという態度に表れている。さらに建前上は平等を謳う近代民主主義の理念がそれに拍車をかけている。

例えばマス・メディアが政治家や芸能人を取り上げる姿勢を考えてみよう。彼らはライブドアの堀江貴文やボクシングの亀田兄弟を最初は好意的に取り上げ、自分たちの意に沿わなくなると一斉に袋叩きにする。内閣の支持率も最初は大きな期待を受けてスタートしたとしても、連日連夜のメディアの批判でめまぐるしく上下する。

いったいこんな状況でまともな人間が育つのだろうか。なぜなら人間は生きていれば失敗もする。ゆえにそれを許してくれるわまりの環境や社会があればこそ人はどうにかこうにか育っていけるのではないだろうか。人間は成長するために自分を受け入れてくれる場所が必要だ。今の日本には家庭を含めてこうした無条件の愛を与えられる場所が幾つあるのだろうか。

「日本人は子どもばかりで大人がいない」と批判する言説自体が、日本を駄目にしていることに早く気付くべきだ。

では、何が日米のこうした違いを生んだ要因なのだろうか。私は、どうもそれはキリスト教の伝統の有無にあるという印象を持っている。キリスト教は何千年もかけて西洋の精神風土を形成してきた。イエスの残した最後の言葉(「互いに愛し合いなさい」)は、彼らの人間関係を無意識のところで規定している。それに対する反発も含めて、倫理こそはユダヤ‐キリスト教が人類もたらした最大の財産である。

こうした視点に立つと、確かに日本人は、かつて「道徳的な国民」と言われたが、いまだ倫理を持つには至らなかったのではないだろうか。なぜなら倫理は「絶対というもの」(超越論的)を軸に考えた時、初めて生まれてくるからだ。それは人間が自分達の都合で簡単に変更したりすることのできるものではない。

他人を貶すのではなく、他人を心から褒めること。これは非常に勇気のいる行為ともいえる。なぜなら、そのとき自分が相手に対して謙った関係に立たなくてはならないからだ。各自が自己の能力を頼み、他人の足を引っ張ろうと待ち構えている人々の中でそれをやるのは非常に難しい。極端に言えば、自分を無に等しいものとみなしていなくてはならない。だからこそ、今、未伝道の地とされる日本でキリストの教えが実践される必要があるのではないだろうか。

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