I am the vine; you are the branches

Shota Maehara's Blog

トクヴィルの民主政治論―「多数の専制」について

Posted by Shota Maehara : 10月 21, 2010

「・・・そして、民衆の政治の場への進出に伴う問題点について、民主主義の本質および傾向との関連において、十九世紀中葉に早くも、深い洞察を示していたのが、先に第12、13章で取り上げているトクヴィルであった。

 彼は、その著書『アメリカにおけるデモクラシー』において、十九世紀中葉のヨーロッパに、アメリカで先駆的に展開されていた民主主義を、やがてはヨーロッパの各国も直面しなければならない必然的事態として紹介し、そこに含まれる問題点を批判的に論じたのであったが、そこから得られる教訓を、ニ十世紀のファシズムと独裁が登場してきた時期に改めて取り上げて、トクヴィルを「大衆時代の予言者」として評価したのは、ドイツ出身の政治学者J・P・メイヤーであった。そして、今日、トクヴィルは、欧米のみならず日本や韓国においても、広く関心を持たれている思想家となっている。

彼によれば、民主社会の様相は次のようであった。

平等が行きわたった社会において、各個人は独立的で、進取の気風ををもち、自発的に結社を作って共同の事業をなしてゆこうとする傾向を示すが、このことは、他面において、彼らが一人一人としては弱小で、相互の絆が失われれば、ばらばらで、それぞれが自分だけの目先の利益だけを追い求める人間になってしまう危険性を孕んでいることをも意味する。こうなると、平等的社会の個々人は、巨大な中央権力が社会全体の事柄を取り仕切ってくれることをむしろ望ましいと考えるようになる。しかし、この社会には、人民主権の原理が建前として確立されているので、個々人は、自分たちの代表や首長を選挙する機会を与えられていることに満足を見出すことができ、またそれで十分であると考えて、それらの代表者にすべてを委ねた上で、「鎖の先端を握っているのは自分たちだという思いをもちつつ」、安んじてその鎖に縛られたままになるのである。

トクヴィルは、この文脈の中ではっきりと「政治的無関心(アパシー)」という悪弊の拡がりを見通していた。そして、この一般的関心がある緊迫した状況の中で、刺激的な争点によって方向づけられると、もっとも民衆扇動的な指導者をも政治の頂点に押し上げる力に転化してしまう。ニ十世紀中葉におけるファシズム状況の中で、独裁的指導者が登場してきた過程は、一つの面では確かにこのような説明によって、その政治的意味づけを与えられることができる。」―田中治男『西欧政治思想―改訂版』(放送大学教育振興会一九九三年、一四八頁)

広告

コメント / トラックバック1件 to “トクヴィルの民主政治論―「多数の専制」について”

  1. Brilliant post, nicely done. And thanks for mentioning all that info – you have introduced to me to three new blogs and I love them all! Cheers

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中