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Shota Maehara's Blog

ベンヤミン「経験と貧困」に関するメモ

Posted by Shota Maehara : 9月 23, 2010

ベンヤミン「経験と貧困」

ヴァルター・ベンヤミン著作集1『暴力批判論』(晶文社、1969年)に収められた小文「経験と貧困」を読む。

表題は、世代から世代へと伝統に裏付けられた「経験」が先細り、乏しくなっているというベンヤミンの時代認識を表している。その消失しつつある経験を「象徴」するのは、第一次大戦である。

「当時、われわれは、戦場から帰還した兵隊が一様にむっつりおしだまっていたのを、この眼でたしかめたのではなかったか。そうだ、かれらには、ひとに告げることのできるような、ゆたかな経験などなかったのだ。経験は、すっかり貧弱なものになってしまっていた。あれから十年後、戦争文学の氾濫のなかで堰を切ったように出てきたものも、ひとの口からひとの耳へながれこんでいく経験などでは、けっしてなかった。奇妙なことにそうではなかった。ひとびとは、経験がすべて虚偽と化したことを知っていた。」(99頁)

(アガンベンの「インファンティアと歴史」によれば、この経験の貧弱化は、第一次世界大戦よりもずっと以前に、つまり、近代科学の登場にまで遡ることができるという。)

ベンヤミンの考えでは、前衛的な「芸術」の登場は、この経験の貧困と係わっている。すでに有機的なつながりなどは戦争によって砕かれてしまった。だからこそ現代人に必要なのは、この貧しさを自覚し、さらにはこの経験が回復不能であることを認識することである、というのだ。前衛「芸術」はこの認識から出発しているという点で、ベンヤミンにとっては肯定的に捉えられるものであった。

この小文の趣旨は、読みやすい訳文の助けもあって、ずいぶん分かりやすいと思う。ただ、後半の「破壊的」なまでの伝統や経験の否定や、「ミッキー・マウスの生活は、こんにちのひとびとの夢である。ミッキー・マウスの生活は、奇跡にみちている」という言い方にかんしては、その過激な主張を額面どおりに受け取るよりも、むしろアイロニーとして受け取るべきなのかもしれない。

「経験と貧困」の初出は1933年。その3年後の「複製技術時代の芸術作品」では、唯物史観の下敷きに、やはり同種の問題が、複製技術の登場による「芸術」概念の変容という観点から論じられている。有名な「アウラ」(時間と空間の織物、一回性、オリジナリティ)は「経験」の側にある概念だ。「もはや…ではない」という強烈な「危機」の認識から行なわれた批評は、批評とは何か、という原理的な問いとともに、今でも多くのことを考えさせてくれる。

http://mangrove-manglier.blogspot.com/2009/01/blog-post_30.html

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