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Shota Maehara's Blog

ポストフォーディズム

Posted by Shota Maehara : 9月 16, 2010

ポストフォーディズムは、工場や事務所などで雇用されている賃労働者だけでなく、社会全体を剰余価値生産に総動員させる体制のことである。社会では、人々が、ネットワーク形成の様々な技術を集団的に創造し、そうした技術にしたがって様々なネットワークを実際に創造し、また、そうしたネットワークを通じて新たな知識や新たな情動を集団的に創造している。ポストフォーディズム体制において、資本は、これらすべてを剰余価値生産に総動員する、すなわち、これらすべてを労働のもとにおくのである。

しかし、ここで重要なことは、ネットワーク形成技術の集団的創造、ネットワークそのもの、そして、ネットワークを通じて集団的に創造される知識や情動といったものは、その本性において政治的なもの、すなわち「生-政治的なもの」だということである。したがって、ポストフォーディズム体制下で資本がこれらすべてを労働に専念させるとき、資本はまた、それと同時に、これらすべてのものを脱政治化してもいるのである。

要するに、社会全体は、資本によって労働のもとにおかれると同時に、政治から切り離されるということである。やや粗雑なイメージをここで喚起しておくならば、フォーディズム時代において資本によって労働のもとにおかれていたのは、午前九時から午後五時までのあいだ工場に閉じ込められている範囲での賃金労働者たちの生であり、また、そうした賃金労働者を資本のために再生産する役割を担わされていた人々(賃金労働者の家族など)の生であったが、例えば、こうしたフォーディズム体制下の賃金労働者たちは、午後五時になって工場の外に出ることをひとたび許されれば、翌日の労働力の再生産のための時間(労働のための休息や睡眠)を資本からかすめ取りつつ、政治的な様々な活動に残りの時間を使うことができた(「プロレタリアートの夜」)。

すなわち、フォーディズム体制下では、少なくとも、午後時から翌日午前九時までの賃金労働者たちの生を、先に挙げたような社会的諸要素の政治家に当てることができたわけである。ところが、賃金労働が時間的フレキシビリティと空間的モビリティとによって規定されるポストフォーディズム体制下にあっては、かつての賃金労働者たちがもっていたこの僅かなチャンスも奪われることになる。社会全体が資本によって労働のもとにまるごとおかれ、それによって、社会全体が政治から切り離されるというのは、例えば、そういうようなことである。

このことによって導かれる帰結はどのようなものか。それは、政治が一部のエリートのみによって独占されるということである。資本によって、社会全体において集団的に創造されるすべてのものが商品化され、また、社会全体がひとつの巨大な商品取引ネットワークに還元される一方で、一部の政治エリートが、こうして脱政治化させられた社会に代わって、政治をまるごと独占するのである。ネグリの言うような、資本主義者たちとテクノクラートたちとの「同盟」というものがあるとすれば、それはまさにこうして結ばれるのだ。すなわち、社会をまるごと労働に専念させる資本主義者たちと、これに応じて政治のすべてを独占するテクノクラートとのあいだの「同盟」である。 (出典: Jinkawiki)

参考文献 

パオロ ヴィルノ (著), Paolo Virno (原著), 柱本 元彦 (翻訳) 『ポストフォーディズムの資本主義―社会科学と「ヒューマン・ネイチャー」』/リチャード セネット (著), Richard Sennett (原著), 森田 典正 (翻訳) 『不安な経済/漂流する個人―新しい資本主義の労働・消費文化』

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