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Shota Maehara's Blog

暴力と恩寵の弁証法―フラナリー・オコナーを読んで

Posted by Shota Maehara : 9月 9, 2010

1.はじめに

フラナリー・オコナー(Flannery O’Connor)は、1925年にアメリカ南部のジョージア州の海辺の町サヴァンナで生まれた。彼女は熱心なカトリック教徒であったが、1949年に父親と同じ紅斑性狼瘡を発病する。以後彼女はこの難病と闘いながら、アメリカ文学史上に残る数々の短編を発表し、1964年に39歳の生涯を閉じた。

代表作「善人はなかなかいない」は1955年に同タイトルの短編集の中の一つとして出版された。彼女の作品には常に底流にカトリック信仰があるが、フォークナーなどアメリカ南部の作家と同様に、その表面は不気味なものや暴力に覆われている。それゆえそこに描かれるその残酷で、グロテスクな人間世界の実像はある種の読者を敬遠させる一因にもなってきた。

しかし、彼女の作品は単なる暴力的な小説の一言でかたづけられるべきではない。では、果たして彼女は人間の暴力を通して、その先に何を描きだそうとしていたのだろうか。この短いエッセイではこの秘密の一端に私なりに迫ってみたいと思う。

2.「自己中心」という概念

キリスト教のプロテスタント教会の説教では人間の自己中心性こそが罪であるという思想がしばしば語られる。例えば、私の尊敬するプロテスタントの作家、三浦綾子も小説やエッセイ、そしてインタヴューの中でこの問題を繰り返し述べている。

そう。キリスト教ではね、その自己中心を罪だというのよ。考えてみると、人のいう悪口は許せない、しかし自分のいう悪口は、悪いとは思わない。自分の夫を取られることは許せない。しかし人の夫を自分が取ることは、美しい恋愛だなどと、うっとりしている。自分のしていることが、どれほど人を傷つけている罪であるか、ということに気づかない。この自分の罪に気づかない、ということが本当に罪だと思うのよ。気づけば神様の前に謝ることができるけど、気づかなければ謝れないわね。この自己中心こそが、罪の素、むずかしく言えば原罪の大きな要素といえるのよ。(「罪ってなあに」『風はいずこに』集英社文庫)

また、プロテスタント系の団体が出している小冊子にも同様の記述がある。

人は本来、造り主である神との交わりのできる神との交わりのできる存在として造られました。けれども、神の命令に背き、神から孤立した、自分勝手な道を歩むことを選び取りました。それで神との交わりが壊れたのです。聖書でいう「罪」とは、神に反逆したり、神を無視したりすることに現れる、人の「自己中心」のことです。(「豊かな人生のための四つの法則」日本聖書刊行会)

さらにはアメリカでもっとも影響力のある牧師であり、オバマ大統領の就任演説でもスピーチをしたリック・ウォレンも全米でベストセラーになった『人生を導く5つの目的(Purpose Driven Life)』において自分の人生ではなく、神の人生を生きることから出発しなければ人生に本当の意義は見いだせないだろうと述べている。

しかし、一体いかにしたら自己中心から神中心の生活へと転換できるのかに関しては誰も語らない。ただ一日も早く神を知るようになってほしいというばかりである。それゆえ、私はこの「自己中心」というキリスト教的罪の概念に半分納得できても、もう半分は何か釈然としない気持ちが残っていた。つまり、単に人間の自己中心が罪だといういうのなら困難でもなんとか自力でそこから逃れていくことは可能ではないかと思われたのである。ならば、それは単なる道徳的な努力目標と何が違うというのだろか。いわゆる「道徳」と「宗教」の差異はここに秘められている。

3.「暴力」という概念

かつて東欧のユダヤア系のエマニュエル・レヴィナスは、人間存在の根源にある暴力性について深く思考した哲学者である。彼は人間の自己中心性こそが暴力であることを次のように述べている。

もちろん暴力とは、別のビリヤードの球に当たるビリヤードの球のなかだけにあるものではない。収穫物を台無しにする嵐のなかだけに、奴隷を虐待する主人のいなかだけに、市民を頽落させる全体主義国家のなかだけに、人々を隷属させる軍事的侵略のなかだけにあるわけでもない。おのれひとりだけが行動するものであり、宇宙の自余のものはその行動を受け入れるためにのみそこにいるかのようにしてなされる行動は何であれ暴力的である。ということは、すべての点においてわたしたちがその協力者であることなしに私たちが蒙ることになる行動は何であれ暴力的だ、ということになる。(レヴィナス『困難な自由―ユダヤ教についての試論』)

私たちは世界のなかで自分を中心にして考えるとき、認識においても、現実においても他者を排除しようとする。それをレヴィナスは広い意味で「暴力」と呼んだのだ。

そう考えると、我々はある袋小路に入り込んでしまったことになる。つまり、生きていくためには他者を押しのけることは避けられず、かといってそれを続けていけば他者と対立し、孤立していくことは避けられない。いわば「生きるとは暴力である」というジレンマ(葛藤)である。ここで重要なのは、このジレンマは個人の努力では解決しない。それは人間の存在に刻みつけられた原罪のようなものであるからだ。

3.神の「恩寵」(Grace)

かくして自己の無力を知った時にのみ我々は神を思うことができるのだ。我々は暴力に浸されている人間存在であるのにもかかわらず、それに反して他人を救おうとする行動に突き動かされることがある。この人間的な物差しで言ったら極めて非合理な無償の行為を促す力をクリスチャンは「恩寵」(grace)と呼んでいる。

12人の弟子のうち、ユダは裏切り、愛弟子のペテロもまた自分を知らないと否認することを予言したうえで、なおも愛によってイエス・キリストは弟子たちを励まして最後の晩餐でこう述べる。

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。(新約聖書、ヨハネ福音書13:34-5)

ここに示されているのはイエス・キリストによってもたらされた新しい契約、すなわち無償の愛(アガペー)のことに他ならない。まさに神が私たちを愛して下さったことによって、私たちも罪から逃れ互いに愛し合えるのだということ。そのために、人間が神に到達しようとするのではなく、神が人間の世界まで降りてきて我々に神の愛を示して下さったのだ。

この自力による救済から他力による救済への認識の転換(Conversion)こそ道徳のみならず、ユダヤ教徒とも峻別されるキリスト教の本質なのだ。フラナリー・オコナーがアメリカ南部の現実を通して描いた暴力と恩寵の弁証法はこのことをわれわれに教えてくれている。

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