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Shota Maehara's Blog

哲学的メモ―ヴァレリー「人と貝殻」について

Posted by Shota Maehara : 9月 2, 2010

日本の思想家・柄谷行人は、かつてフランスの批評家・詩人ポール・ヴァレリーの言葉として、「人間は自然そのものを理解することはできず、それを単純化したもののみを理解できる」という視点を提示した。これは人工と自然や人間と神、文明と野蛮、理性と感性など安易な二元論に覆われた現代において多くの示唆を含んでいる。

貝殻の問題はささやかなものながら、こうしたことのすべてをかなりうまく例示し、わたしたちの限界を照らし出すのに十分である。人間がこの物体の作者ではなく、偶然がこの物体に責任をとるわけではないので、わたしたちが「生きた自然」と名づけたものを、きちんと発明する必要がある。「生きた自然」の仕事とわたしたちの仕事との差異によって、かろうじてわたしたちは「生きた自然」を定義できる。だからこそ、わたしは人間の仕事とはどういうものなのかを少し正確にしなければならなかったのだ。(ポール・ヴァレリー「人と貝殻」)

ここでヴァレリーは、「人工と自然」という対立がロマン主義的な幻想でしかないことを告げている。そして、人間にできることはただ自分たちの仕事の領域を確定しることだけだということである。柄谷行人はこうしたヴァレリーの視点を次のように説明している。

ヴァレリーは、人間と自然の安易な対比・対立を認めない。つまり、人間と対比されたものを自然と呼んだわけではない。彼は、人工的な構造の限界に見出される、外部、残余を〝自然〟と呼んだのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

私はここでもう一人の思想家セーレン・キルケゴールを導入する。彼は、キリスト教の真髄を神の超越性にもまた人間の内在性にも還元することを拒否し、イエス・キリストというこの神でありまた人間でもあるパラドクスという視点(=始点)から世界を再構築しようとした。

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