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Shota Maehara's Blog

キリスト教のパラドックス―内在性と超越性

Posted by Shota Maehara : 9月 2, 2010

ここで「超越性」という言葉に注意しておこう。もしそういう言葉を使うとしたら、私が意味しているのは他者の外部性、つまり内面化しえない他者性のことである。もっと厳密にいえば、他者との関係の外面性、すなわちあの非対称性のことである。しかるに、それはしばしば超越的な他者(超越者)と混同されてしまう。超越者をもちだすことは、しかし、実は他者の超越性=外面性の廃棄となる。同じことが絶対的な他者という言葉についてもいえる。もしそういう言葉を使うとすれば、私はそれによってたんに相対的な他者との関係の絶対性を意味する。それは絶対的な他者がいるということではなくて、相対的な他者との関係、あるいは他者の他者性が絶対的であること、けっして内面化しえず消去もしえないことを意味する。むしろ、絶対的な他者をもちだす者こそ、この相対的な他者の他者性を消去するのである。

たとえば、キルケゴールはこう語っている。

天才と使徒とは質的に違ったものであり、その規定は、それぞれの質の領域を生まれ故郷とする、すなわち内在性と超越性の領域である。(一)天才は、したがって、もたらすべき新しいものをもっているが、その新しいものは人類一般に同化されるとまた消え去って行く。それは「天才」という差異が、永遠のことを考えるや否や消え去るのと同様である。使徒はもたらすべき新しいものを逆説的にもっており、その新しさは、本質的に逆説的であって、人類の発展にかかわる先取りといったものではないから、いつまでも存続する。それは使徒が永遠に使徒のままであり、すべての人類とは本質において逆説的に違っているために、永遠の内在性も使徒をすべての人間と本質的に同一線上に置くことができないのと同様である。(二)天才は自分自身によって、すなわち、自分自身の内にあるものによって、その在るところのものである。使徒は神からの権能によってその在るところのものである。(三)天才は内在的な目的論をもつにすぎない使徒は絶対的逆説的な目的論の立場に置かれている。(「天才と使徒との相違について」『現代の批判』、桝田啓三郎訳、岩波文庫)

(中略)

天才の栄光は、むしろその不遇時代のゆえに輝く。世の中から無視され排除されなかったような天才はいない、というのが、ロマン派的な「天才」の神話である。しかし、どんなに時代を先取りしていようと、そのために孤立していようと、「天才」はやがて共同体に受け入れられるし、結果的に、それは共同体の「自己表出」だとみなされる。シャーマン、英雄、天才といったものは、最初にいったように、共同体にとっての「異者」である。しかし、彼らはそのことによって、共同体の目的を先取りし、あるいは共同体を活性化する。いいかえれば、彼らはそのことによって、共同体の目的を先取りし、あるいは共同体を活性化する。いいかえれば、彼らは「内在的」なのだ。そこにおいて、どんなに共同体との対立があろうと、あるいは、どんなに彼らが〝超越的〟にみえようと、彼らは共同体の内部にある。

一方、キルケゴールのいう「使徒」は、預言者と言いかえてもよいが、彼らの〝言葉〟は、けっして共同体の内部からきたものではないし、また内在化されることもない。なぜなら、それは、共同体と共同体の「間」における、相対的な「他者」との関係からきているからであり、その意味で「他者の言葉」(バフチン)だからである。それがキルケゴールのいう「超越性の領域」なのだ。逆に、宗教に関して人が表象するような「超越性の領域」なるものこそ「内在性」なのである。―(柄谷行人「内在性と超越性」『探究Ⅱ』講談社学術文庫)

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