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Shota Maehara's Blog

三浦綾子『塩狩峠』におけるキリスト教の核心

Posted by Shota Maehara : 8月 16, 2010

三浦綾子『塩狩峠』

ある日、父はいつものように夕食をおえると、ソファーにもたれかかりながら今読んでいる本について語り始めた。定年で退職して以来、海外の古典文学を読みふけっている父が今読んでいる作品は三浦綾子の『塩狩峠』であった。父は自分の感動した箇所をひと通り説明し終わると、早速私に意見を求めてきた。私は父の話に共感しながらも、一つだけ不満を口にした。それは、小説を自分自身の問題にひきつけて読んでいないという点であった。なぜなら読書の醍醐味は、対岸の火事として話を読むのではなく、この話はまさに「お前のことだ」と言われているかのような姿勢で読むことにあるからだ。

キリスト教の核心

さらに重要なことに、こうした読書に向かう姿勢は、キリスト教における核心へと私たちを導く。私もまたそのことをこの作品から知らされた一人だった。とりわけ彼女自身の信仰告白との呼べるシーンが強く印象に残っている。そもそもこの作品は北海道の塩狩峠が舞台で駅員で敬虔なクリスチャンである永野信夫が自らの命を犠牲にして、乗客の命を救った実話をもとにしている。このシーンはまだ信仰に入る前の信夫がある伝道師から初めてキリストの教えの核心を突き付けられる場面である。

私:「主人公信夫はキリスト教伝道師伊木一馬を自宅に呼んで、イエスこそ人格を超えた神格を備えた存在であることを信じると告白する。無実でありながら十字架に架けられ、しかも自分を殺そうとする人たちのために《父よ、彼らを許し給え、その為す所を知らざればなり》と祈ることができる。この人こそ神の子であると深く感動したんだ。」

父:「それでキリスト教信者になったの?」

私:「いや、まだ。彼は伊木伝道師にこう問われるんだ―《しかしね。君はひとつ忘れていることがある。君はなぜイエスが十字架にかかったかを知っていますか》。それに対して信夫はこの世の罪を背負うためにと答える。そして伊木はこう告げる―《そうです。そのとおりです。しかし永野君、キリストが君のために十字架にかかったということを、いや、十字架につけたのはあなた自身だということを、わかっていますか》と。」

ここで父はコーヒーを入れるために少し休憩をとった。やがて、キッチンから彼が戻ってきて、チョコレートと一緒にブラック・コーヒーを運んできた。それを飲みながら、父は満足そうにして、やがて私の方に向き直った。

父:「それでどうなったの?」

私:「信夫ははじめどうしてもそれが信じられないんだよ。自分はそんなことした覚えはないと言ったら、それじゃあなたはキリストとは何の縁もない人間ですって、ばっさり切り捨てられちゃって。この重要な対話部分を読み上げてみるね―《先生、ぼくは明治の御代の人間です。キリストがはりつけにされたのは、千何百年も前のことではありませんか。どうして明治生まれのぼくが、キリストを十字架にかけたなどと思えるでしょうか》、《そうです。永野君のように考えるのが、普通の考え方ですよ。しかしね、わたしはちがう。何の罪もないイエス・キリストを十字架につけたのは、この自分だと思います。これはね永野君、罪という問題を、自分の問題として知らなければ、わかりようのない問題なんですよ(略)》。」

なぜ聖書は永遠に読み継がれるのか

父:「信夫は自分自身をさほど罪深いとは思っていなかったわけだね。」

私:「そう、でもここからが大切なんだ。キリストの処刑を自らの犯した罪と受け止めることによって、人は時代と空間を超えて、古代のイェルサレムでのイエスの死に立ち合うんだ。そうすることによって、キリストの存在は彼らにとって遠く離れた昔の出来事ではなくて、今・ここで起こっている出来事に変わるんだ。こうして人々がこの出来事に自ら罪びととしての意識を持って同時代性を感じ続けるからこそ、キリスト教の聖書は永遠に生き生きとし、人々に読み継がれていくんだ。」

二人の話はとうとう佳境に差し掛かりつつあった。父もだいぶ疲れ始めているので、私はこれまでの話をここでまとめて切り上げようと思った。実際彼の瞼はもう閉じそうになっていて、まるでゾンビと深夜二人で話しているような孤独な心境だった。

私:「キリスト教は、この罪という概念によって、同時代性=永遠性を獲得したんだ。時空間を超えて、読み手がこの出来事を自分自身の問題として受け止めるからこそ、キリスト教の聖書は永遠に古びることがない。この内(この世)と外(あの世)とを繋ぐ回転扉のような聖書という不思議な書物は後にも先にも現れないだろうな。これこそ人類史上普遍の傑作であり、後のダンテやゲーテ、そしてドストエフスキーに至るまで今日の文学はこの形式を反復しているに過ぎないと言うこともできるからね。」

父:「(半分眠りながら)なんか難しくなってきたね。つまりどういうこと?」

私:「まあ要するにいつも言っていることだよ。つまり、文学であれ歴史であれ本を読むときには、それを単にストーリーや内容を追うものとしてではなく、自分自身だったらどうするかという主体性が大切なんだよ。だってあらゆる偉大な書物はこれはお前のことだよって挑発しているんだからね。その挑戦にどう応答するかが読書の醍醐味じゃないのかな。」

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