I am the vine; you are the branches

Shota Maehara's Blog

「言葉」との邂逅―象徴交換としての「詩」/「死」

Posted by Shota Maehara : 6月 17, 2010

私は大学時代、早く自分もひとかどの人間として世に出たいという想いが強くあった。そして、音楽や学問にひたすら情熱を傾けていた。同時に時代は大学のレジャーランド化と呼ばれた時期でもあり、本来学問とかかわりのない輩が単に大学出の肩書を得るためだけにキャンパスを我が物顔で闊歩していた。

そんな中で、私はつねに早くこんな惨めな世界からは抜け出したいと想いつつも、理想の自分と現実の自分のギャップに悩み続けてもいた。目標に比して、自分はまだこんなところまでしか到達出来ていないという事実に愕然とした。そしていつしか、このギャップは私をこの世界に対する絶望から、自分自身に対する絶望へと突き落とした。

私は日一日と憂鬱な感情にとらわれていくのを感じた。日々の光景が乾涸びていくのを感じた。単調な毎日の繰り返し。それはやがて生をも乾涸びさせていった。私は奈落の底から世の中を見上げているかのような絶望の中で、いつしか死を身近に感じ始めていた。

しかし、私にはただ一つだけ救いの道が残されていた。それは「言葉」であった。これまでの人生の中で、なぜか私の心に残り、支えになってくれた愛しい言葉たちへの思いと渇望。そんな私が強く「詩/死」に魅かれたのは当然の成り行きであったかもしれない。

私は冗談でも何でもなく、こう思っている。詩は死との象徴的交換であると。つまり、詩人は死と引き換えに言葉を獲得する。もしくは死を詩に託すことによって、死をまぬがれ、人生を生き抜いていくことができるのである、と。

以前から貪るように読んでいた新約聖書に加え、私はビートニク詩人やポップ・ミュージックの中に私の人生を転換させる「言葉」との邂逅を経験した。例えば、アレン・ギンズバーグ(「吠える」)やパティ・スミス(「静寂とざわめき」)、 U2(「IF God Will Send His Angels」)、そして日本の女性ミュージシャンのCocco(「ポロメリア」)などである。

この時期から、私は猛烈に言葉を紙に書き留めておく習慣ができた。なぜなら、記憶はあまりに薄れやすく、大切な言葉も感動したそばからすぐに忘却されてしまうからである。

詩は素晴らしい。詩は世界や自然や人間を新しい角度から眺めさせてくれる。私たちの生を閉じ込めているのは世界そのものではなく、貧しい言葉である。鋳直されることのない決まり文句。ステレオタイプのそれ。こうしたものが日々の生活から思考だけでなく、彩りをも奪っている。

たしかに一見すると、人は毎日同じ光景を目にしていると思いがちだ。空の鳥を目にして「また同じ鳥が飛んでいる」とつぶやく。しかし、本当に同じ鳥なのかは考えてみようともしない。ましてやそれは単に鳥ではなく、何らかの名前を持っているはずなのに。

そこで世界を新しい言葉、新しい文法で語り直すなら、その時世界はあまりにも美しく眼前に現れる。幸福や喜びだけでなく、苦難も、残酷さも、醜さも、悲しさも、あまりにも美しく。そこでは現実が言葉を手繰り寄せるのではなく、私たちの言葉が現実を手繰り寄せるかのようである。詩作とはこのように逆説的な、「創造の営み」なのである。

よく人は「一体何のために生きているのか」、また「人生の目的とは何か」という実存的なテーマに悩む。私もその一人だった。だが、だがそこから逃れるために必要なのは精神科で処方してもらう薬ではない。むしろ、人生に対する新たな「認識」の転換なのだ。つまり、将来の目的のために現在があるのではなく、充実した現在の軌跡の先に未来が現れるということ。いまを将来のために抑圧せず、今を将来のために解き放つこと。

この認識の逆転のきっかけは、言葉が世界を多様に見せてくれたからこそ可能なことであった。それゆえに、私はいまもって新しい言葉=新しい認識だけが、この世界を再創造できるのだと強く信じている。

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