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Shota Maehara's Blog

アドルノに関するノート5―「啓蒙の弁証法」から「否定弁証法」へ

Posted by Shota Maehara : 5月 6, 2010

―「しかし、権力とは人間たちによって代弁されるものなんだ。」と一面的理性は、さらに囁く。「権力の蔽いを剥ぐことで、君は人間たちを標的にしている。しかも、そういう人間たちの後にはもっと悪いやから現れてくるだろう。」

この嘘は真実を語っている。たしかに、すでにファシストの人殺しどもが出番を待っているなら、弱体の政府に民衆をけしかけるべきではないだろう。けれども、それほど暴虐ではない権力と同盟を結ぶとしても、そこから引き出される正しい結論は、忌まわしい所業についてだんまりをきめこむ、ということにはならない。悪魔から人を守っている[権力の]不正を告発することによって、善事が傷つくおそれは、不正の告発を悪魔に委ねることによって、悪魔が手にする利得よりは、まだまだ小さいのが常だった。勢いのおもむくところ、社会は行く所まで行きついて、そこにわずかに悪党だけが真理を語り、ゲッべルスは、嬉々として続けたリンチの想い出を反芻している。

善ではなくて、悪こそが理論の対象なのだ。理論は、その時々で特定の形をとる生の再生産を前提している。理論のエレメントは自由であり、そのテーマは抑圧である。言語が弁護論調になるとき、言語はすでに腐敗している。その本質からして、言語は中立的でも実用的でもありえない。

―「君はいい側面を述べて、際限ない辛辣さの代わりに愛情を原理として告知することはできないのか!」

真理のための表現はたった一つしかない。すなわち、不正を否定する思想である。いい面への固執が、否定的な全体の中で止揚されないならば、それはその面とは逆のもの、つまり暴力を美化してしまう。

私は言葉でもって陰謀を企て、プロパガンダを行い、人を暗示にかけることができる。これが、現実におけるあらゆる行為と同様に、今日、言葉がそれにからめとられている動向であり、この動向こそ、嘘が唯一理解するところのものである。現状に異議を唱えることさえ、ようやく本性を現しつつある暴力や抗争し合う官僚や権力者たちの役に立つことになるのだぞ、と嘘は中傷する。名状しがたい不安に駆られて、嘘は自分自身のことしか、目に入らないし、またそれしか見ようとしない。暗闇の中では、さまざまの物の区別がつかないように、嘘の媒体、つまり単なる道具としての言葉の中に入りこんだものは、嘘と同じになる。

しかしながら、結局、嘘によって利用されない言葉などないのだ、ということがどれほど正しいとしても、嘘によってでなく、唯一つ、権力に逆らう思想の厳しさのうちでのみ、権力の持つ善い側面も明るみに出されるのである。最後の被造物たる人間に加えられたテロに対する妥協することなき憎しみは、幸いに命拾いをした者の正当な感謝の念である。太陽を拝むのは偶像崇拝である。灼熱の陽光に枯れ果てた樹を目にして、はじめて、世界を照らしつつも焦がすことなき日の尊厳への予感が、息づき始める。

―アドルノ「ヴォルテールのために」(『啓蒙の弁証法』手記と草案より)

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