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Shota Maehara's Blog

「ユダヤ教」をめぐって―知性を尽くして神を愛する

Posted by Shota Maehara : 5月 4, 2010

ある日私が教会で礼拝に参加させていただいているとき、なぜユダヤ人はこれほどまで迫害されるのかということに話が及んだ。その時、それは彼らが「選びの民」だからであると牧師様がおっしゃったのを私は印象深く覚えている。確かに神に選ばれるということ、信仰をもって生きるということは幸いだけでなく、苦難もまた共にすることだとするなら、この言葉の持つ味は限りなく深い。

しかし、我々はどれだけ「ユダヤ」というものを知っているか。さらに言えば、「キリスト教」(新約)から解釈された「ユダヤ教」(旧約)ではなく、真のユダヤ教を。例えば、旧約聖書には「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」という有名がくだりがある。ここでとりわけなぜ「知性を尽くして」と書かれているのかを考えてみたい。

かつてリトアニア生まれのユダヤ系哲学者エマニュエル・レヴィナスは『困難な自由―ユダヤ教についての試論』(国文社)の中で、ひとは本能的にユダヤ教徒であることはできないと述べている。その理由を彼はこう説明する。

「ユダヤ教徒であるためには、善をその心の底から願わなければならないし、同時に、単に心の一時の高揚に任せて善を望んではならない。心の高揚を維持しつつ、抑制すること、ユダヤ的典礼とはまさにこのことである!感情(passion)がその情緒の過剰(pathos)に身を委ねることなく、「意識」の覚醒へと変成すること、これである!ユダヤ教への帰依は典礼と学知を前提とする。正義は無知なるものには不可能だからである。ユダヤ教とは極限的な意識の覚醒のことなのである」。

では律法が目指す「正義」とは何か。なぜ、正義に学知が必要とされるのか。こうした疑問にレヴィナスは別の個所でこう答えている。

「ユダヤの叡智はこう教えています。天地を創造され、それを支えられているお方であっても、人間が人間に対して犯した罪を赦すことはできない」

なぜならそれは「神に対して犯された過ちは神の赦しに属する。だが、人間を傷つけた過ちは神の所有に属さない」からだ。ただし、「ユダヤ教は「善」にいついての意識と律法だけに基づいて、それ以外にいかなる超―人間的な要素の介入もなしに、人間が再生すると信じています。」と付け加えている。

レヴィナスによれば、ユダヤ教には宗教的「熱狂」や「霊」も必要ではない。むしろ、近年の宗教=霊であるかのような神秘主義的風潮に警鐘を鳴らしている。それらは結局「無知」によってかたちづくられるものだからだ。それゆえユダヤ教に聖テレジアは不要だと語る。むしろユダヤ教は地上での人間の在り方にだけ自らを局限し、自らの罪を引き受けながら、独自な内在的(=地上的な)「倫理」(善、正義)を追求することに向かう。

「正統的ユダヤ教は道徳的内在性の用語をもって思考されるのであって、教条的な外面性の用語をもって思考されるのではない。超自然的なものは正統的ユダヤ教にとってはなんの強迫観念でもない。ユダヤ教における神性とのかかわり方は倫理の厳密な展開によって規定されるのである。」

その結果ユダヤ教はキリスト教における神の犠牲による人間の罪の赦し、また、信仰のみによる罪からの救済の教義のいづれをも斥ける。もちろん私はこれがユダヤ教のすべてであり、「ユダヤ的」なるものがこの言葉に尽くされているなどと言うつもりはない。当然ショーレムなどの他の文献を深く調べてみなくてはならない。

ただし、ユダヤ教の本質は、正義のための学知であり、熱狂でなく「意識」の覚醒だと述べるレヴィナスの言葉はどこまでも厳しく、美しい。そしてどこまでもこの地上での人間関係=倫理=神性という聖なる方程式を解こうとする姿勢に一神教の一神教たる所以を垣間見るような思いがするのは私だけであろうか。我々は知性を尽くして神を愛することを彼らから学べるし、また学ぶべきなのではないだろうか。

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