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Shota Maehara's Blog

啓蒙の弁証法―文明としての収容所

Posted by Shota Maehara : 5月 1, 2010

1990年代以降冷戦が終わり、近代の認識枠組み(パラダイム)は多くの出来事によって揺さぶりを掛けられてきた。ニューヨーク同時多発テロ、サブプライムショック、アメリカ覇権の終焉、ロシアや中国の台頭である。こうした近年の出来事はある一つのベクトルを示しているようでいて、世界が今後どうなっていくのかという統一的なヴィジョンを描くのは極めて難しい。

確かに経済学者の池尾氏は日本の長期不況は実は不況ではなく、これが実態なのだと指摘する。また、海外の市場を開拓できる成長産業が育たなくては日本経済や雇用の安定はおそらく望めない事も事実だろう。だから今後、中国やアジアへ職を求めて移動する若者が増えたとしても不思議ではない。だが哲学をする人間にとって重要なのはそうした個々の現象面だけではない。むしろ、今われわれはどんな社会に踏み込みつつあるのか、その全体像を示すことが極めてクリティカルな問題なのである。

そんな中で一つの手がかりになるのはロシアの作家ソルジェニーツィンの作品『イワン・デニーソヴィチの一日』である。そこで彼は現代文明を「収容所」(ラーゲリ)という概念を通して読み解くという新たな視点を提示している。この小説はもともと、スターリン体制下のソビエトにおいて、身に覚えのない罪で囚われの身となったコルホーズの一農民イワン・デニーソヴィチの過酷な一日を通して、専制体制の暗部を告発する目的で書かれた。

ただソルジェニーツィンにとって、「収容所」は単にスターリン体制下の極端な一過性の出来事ではなくて、いまや平凡な「日常」(=一日)なのである。それをアドルノの『啓蒙の弁証法』に即して言い換えれば、文明がある段階に達すると「収容所」が歴史の地表に顔を出す。文明が成熟したドイツのワイマール共和国で専制体制が生まれたように。そしてそれはいまやアメリカやロシアや中国の覇権のもとで軍産学複合体として地球規模の「収容所」になりつつある。

こうした現代文明を特徴付ける危機は、「時間」という観念の消滅ではないだろうか。それを「記憶」と呼んでも、「歴史」と呼んでもよい。グローバルな交通が発達し、情報が瞬時に行きかう時代に地理的な距離は意味をなさなくなったと言われる。しかし、本当に失ったのはむしろ 我々の「時間」の方なのではないか。

我々ポストモダンの怪物は、近代の進歩という信仰からも離れ、速すぎる日常の時間の流れの中でただひたすら生きている。終わりなき日常に対する倦怠感、刹那主義的な生き方は人間から過去を奪い、記憶の糸とつながれている未来をも知らぬ間に抜き去っていく。いま、先祖ともつながらず、自らの人生を持たず、他者の経験ともつながりを持たない人間が増えているとしたらそれはどことなくラーゲリの囚人に似てはいないだろうか。

では、こうした時代に突入しつつある我々には幸福はなく、あるのは痛みだけなのだろうかといえば、実はそうではない。イワン・デニーソヴィチもまた一日の終わりにこうつぶやいている。

 「眠りにおちるとき、シューホフはすっかり満足していた。一日の間に今日はたくさんいいことがあった。営倉にはいれられなかったし、班は「社・主団地」へやられなかったし、昼めしのときにカ―チャを一杯せしめたし、班長は作業パーセント計算をうまく〆(しめ)たし、シューホフは壁を楽しく積んだし、検査で鋸をみつけられなかったし、夕方はツェ―ザリでひと儲けしたし、タバコを買ったし。それから、病気にならずに直ってしまった。一日がすぎた。暗い影のちっともない、さいわいといっていい一日だった。

 こんな日が彼の刑期の鐘(はじめ)から鐘(おわり)まで三千六百五十三日あった。閏年のお陰で―三日おまけがついたのだ…」(染谷茂訳、岩波文庫、二〇〇頁)

我々もまた日常の些細な流れの中に埋没し、疑問を感じずに生きられれば案外幸せに暮らしていけるのかもしれない。それも一つの生き方の選択ではあるだろう。私の友人がよく言っていた。パスカルは素晴らしい哲学者だが、一点だけ間違っていた。人間はすべて考える葦ではない、むしろ考えない葦の方が多いのだと。

それは無論確かであるが、ただそれでも心のどこかに違和感が残る。そのときあなたや私はきっと、知識人としての入口に立っているのだ。なんとなれば知識人とは日常の範囲を超えて、社会や世界全体のことに自らの関心を及ぼせる「人間=考える葦」(パスカル)にほかならぬからだ。そして何より知識人の条件とは、刹那性ではなく、普遍性を探究する永遠の自己啓蒙にこそ存する。それだけが現代における唯一の「知性」であり、「倫理」なのである。

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