I am the vine; you are the branches

Shota Maehara's Blog

ミラン・クンデラ論―人生こそ小説を模倣する

Posted by Shota Maehara : 5月 1, 2010

19世紀ロシアの文豪チェーホフのドラマ(劇)は、「関係の偶然性」に翻弄されながら生きていかなければならない人間の存在を描いていた。そしてまさに現代においてその人間存在の寄る辺なさを描いたのが、チェコの作家ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』である。主人公トマーシュは優秀な医者で、ドンファンであった。そして、ある出張のため訪れた片田舎で平凡なウェイトレスとして働いていたテレザと出会い、すぐさま恋に落ちる。そしてお互いが釣り合わない恋に戸惑いながらも二人で暮らし始める。

まもなくして一九六八年のプラハの春を境にして生活は一変し日々の行動や言葉が監視される。テレザとの恋のために、亡命せずチェコで暮らし、とうとう医者という天職をも捨てる覚悟をする。トマーシュは言う。人生はたった一度きりだ、その意味で結果は後にならないと分からないが、自分は「そうでなければならない」(Es muss sein!)という運命の重しから逃れたい。そういう運命の重しと正反対にいるテレザとの暮らしに人生を賭けようと決心する。その理由は次のテレザの言葉に見事に集約されている。

「必然性ではなしに、偶然性に不思議な力が満ち満ちているのである。恋が忘れがたいものであるなら、その最初の瞬間から偶然というものが、アッシジのフランチェスコの肩に鳥が飛んでくるように、つぎつぎと舞い降りてこなければならないのである。」(千野栄一訳)

確かにこれはフィクションと現実を混同したいささかロマンチックな言動にすぎないのではないのかと疑う人もあろう。しかしこうした批判にまえもって答えるかのように、人間の生活はそもそも「小説的」構成を成しているのだと語り手は反論する。

「すなわち小説が偶然の秘密に満ちた邂逅(例えば、ブロンスキーとアンナの出会い、プラットフォームと死、あるいは、ベートーベンとトマーシュとテレザとコニャックの出会い)によって魅惑的になっていると非難すべきではなく、人間がありきたりの人生においてこのような偶然に目が開かれていず、そのためにその人生から美の広がりが失われていくことをまさしく非難しなければならないのである。」(千野栄一訳)

これを平たく言えば、二人が偶然に関係を取り結ぶことは前もって決まっている運命ではなく、われわれがよく「縁」と呼んでいるものなのである。ゆえに縁によって結びついた人間の生活の偶然性やその軽さは必ずしも耐え難いわけではない。むしろそれから目を閉ざすことこそトマーシュには耐えがたい。なぜなら未知の可能性へ向かうとき人は不安であると同時に、多様に変化し得る自分と知らない人と出会いコミュニケーションできることへの期待に胸膨らませる生き物でもあるからだ。

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中