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Shota Maehara's Blog

聖書と構造主義的言語学―はじめに言葉があった

Posted by Shota Maehara : 1月 16, 2010

先日、内田樹さんの文章を拝読して、上記の引用の部分を読みました。特に私の目を引いたのは、彼が聖書的な言語観(創世紀でアダムが家畜を目の前に連れてこられてそれに一つ一つ名前を付けていく場面)とソシュール的な言語観(言葉があって、はじめてものが存在する)を対比させて論じていたからです。

しかし私自身新約聖書の問題を考える中で、「はじめに言葉があった、言葉は神とともにあった。言葉は神であった」そして言葉(預言)は受肉してキリストとなる訳ですが、このパッセージを強烈な印象をもって読んでいる訳です。

また、これをより哲学的な議論に置き換えれば、一見単なる唯物論と観念論の論争の再燃の様に見えますが、ソシュールにとって言葉がものよりも先にあるという言語論的転回は、別にものの実在を否定するわけではなく、カントが言ったように確かに「物自体」としてはあるわけです、ただ、我々が言葉によって認識できるのはその影である「現象」だけなのだと。

私は現代哲学を学んだ者として、ソシュールの言語観に深く同意します。しかしながら同時に、新約聖書における言語観はそれと矛盾するものではなく、より高い次元で二つの矛盾を解決できる(アウフヘーベン)と考えているのです。むしろ、浅薄な現代思想の本などよりも、はるかに聖書の言葉に対するとらえ方の方が、ソシュールが言わんとしていたことがよく分かると思うのです。

ともあれ、かじっただけのソシュールをもう一度折に触れて、読み返してみたいという気持ちは私も賛成です。構造主義は実はカントによって既に乗り越えられていたが、構造主義的な知見を否定することはそれ以前に逆戻りすることになると思います。それに詩の創作手段としての「言語」を考えるという観点からも、ソシュールの知見は無視し得ないどころか、無限の可能性を秘めています。

さらに付け加えて言えば、日本の周辺という地政学的要因と、日本語の特性は英文学者の外山滋比古が「アイランドフォーム」の問題として随分前に研究されていますね。

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