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Shota Maehara's Blog

言語学と構造主義に関するノート

Posted by Shota Maehara : 1月 13, 2010

「フランス語の「羊」(mouton)は英語の「羊」(sheep)と語義はだいたい同じである。しかしこの語の持っている意味の幅は違う。理由の一つは、調理されて食卓に供された羊肉のことを英語では「羊肉」(mutton)と言ってsheepとは言わないからである。sheepとmoutonは意味の幅が違う。それはsheepにはmuttonという第二の項が隣接しているが、mouttonにはそれがない、ということに由来する。(略)もし語というものがあらかじめ与えられた概念を表象するものであるならば、ある国語に存在する単語は、別の国語のうちに、それとまったく意味を同じくする対応物を見出すはずである。しかし現実はそうではない。(略)あらゆる場合において、私たちが見出すのは、概念はあらかじめ与えられているのではなく、語の持つ意味の厚みは言語システムごとに違うという事実である。(略)概念は示差的である。つまり概念はそれが実定的に含む内容によってではなく、システム内の他の項との関係によって欠性的に定義されるのである。より厳密に言えば、ある概念の特性は、「他の概念ではない」ということに他ならないのである。」―ソシュール『一般言語学講義』

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コメント / トラックバック4件 to “言語学と構造主義に関するノート”

  1. わど said

    一度コメントさせていただいたか、どーだったかの怪しげな者ですがrssリーダーに登録させていただいてます。

    懐かしいソシュールですね。じつは僭越ながら、こちらもいつかソシュールを話題にとり上げたいと目論んでいました。何故なのか、その理由は明確じゃない部分もありますが、ざっとまとめれば、考えることについての言語の役割(思考=言語?)でしょうか。たとえば思想家の内田樹先生が先日、新潮から『日本辺境論』(未読)をだされました。そのタイトル、本人のブログ、読者たちの感想から、地勢的な特殊性を中心とした日本の思想史が話題らしいと想像できます。日本人の思考が地勢的な特殊性に条件づけられている・・・、これを言い換えると、地勢的な特殊性が日本語を侵食し造形しつづけてきた、みたいな・・・。
    日本人の自分が日本語を陥れる意味ではなく、もっと一般的に、もう一度ソシュールまで戻って、人間の思考と言語の関連を思いだしてみる時代じゃないかと感じていたのです。まとめる力がありましたら、そのあたりをブログ記事にしてみますが。そのような動機からもakizukiseijinさんの記事にグッとくる感動がありました。シンクロなんでしょうか。

    • akizukiseijin said

      先日、内田樹さんの文章を拝読して、上記の引用の部分を読みました。特に私の目を引いたのは、彼が聖書的な言語観(創世紀でアダムが家畜を目の前に連れてこられてそれに一つ一つ名前を付けていく場面)とソシュール的な言語観(言葉があって、はじめてものが存在する)を対比させて論じていたからです。

      しかし私自身新約聖書の問題を考える中で、「はじめに言葉があった、言葉は神とともにあった。言葉は神であった」そして言葉(預言)は受肉してキリストとなる訳ですが、このパッセージを強烈な印象をもって読んでいる訳です。

      また、これをより哲学的な議論に置き換えれば、一見単なる唯物論と観念論の論争の再燃の様に見えますが、ソシュールにとって言葉がものよりも先にあるという言語論的転回は、別にものの実在を否定するわけではなく、カントが言ったように確かに「物自体」としてはあるわけです、ただ、我々が言葉によって認識できるのはその影である「現象」だけなのだと。

      私は現代哲学を学んだ者として、ソシュールの言語観に深く同意します。しかしながら同時に、新約聖書における言語観はそれと矛盾するものではなく、より高い次元で二つの矛盾を解決できる(アウフヘーベン)と考えているのです。むしろ、浅薄な現代思想の本などよりも、はるかに聖書の言葉に対するとらえ方の方が、ソシュールが言わんとしていたことがよく分かると思うのです。

      ともあれ、かじっただけのソシュールをもう一度折に触れて、読み返してみたいという気持ちは私も賛成です。構造主義は実はカントによって既に乗り越えられていたが、構造主義的な知見を否定することはそれ以前に逆戻りすることになると思います。

      さらに付け加えて言えば、日本の周辺という地政学的要因と、日本語の特性は英文学者の外山滋比古が「アイランドフォーム」の問題として随分前に研究されていますね。

  2. 飛天 said

    言語学とか構造主義なんて考えた事もありませんが、子供の頃から下記のように呼び方を教えられました。

    家畜として、叉生きてるのは牛(うし)と呼び、肉や料理されたのは ”ぎゅう”、同様に豚(ぶた)は ”とん” になり、鶏は ”かしわ”、猪は ”ぼたん”、馬は ”さくら”になり、英語でも同じ事が言えますね。 もしかすると、そのまま呼ぶのは生々し過ぎるからでしょうか。 調理されたのは、もう完全に次元の違うものになっていて、違う呼び方をするのでしょうか。しかし、何故か羊の肉はそのままのようですね、まあ マトンとかラムと外国語の英語を使って呼んでますが。 多分、日本に紹介されたのが他の食肉に比べると遥かに後からなので、それの日本語は出来上がってなかったのではないかと思います。

    魚になると、もうそのままで呼ばれ、魚の方が軽く見られているのかしらとも思ったりします。

    • akizukiseijin said

      飛天様。コメントをありがとうございます。家畜として、叉生きてるのは牛(うし)と呼び、肉や料理されたのは ”ぎゅう”、同様に豚(ぶた)は ”とん” になり、鶏は ”かしわ”、猪は ”ぼたん”、馬は ”さくら”になり、(略) 調理されたのは、もう完全に次元の違うものになっていて、違う呼び方をするのでしょうか。」なるほど、そうなんですね。日本語でも野生と食肉では違う呼び名があるんですね。世界は広いですね、勉強になりました。かつてマルクスが野生の肉を生でかじるのと、焼いた肉をフォークで食べる人間は決定的に異なる。それは焼いた肉をフォークで食べるのは、すでに「文化」の領域に属しているからだと述べていました。これは、最近亡くなった文化人類学者のレヴィ・ストロースが好んで引用する箇所ですが、私もなぜか最近になって彼らが何を言わんとしていたか気になるのです。そこには現代を解き明かす何かもっと根本的な問題が潜んでいるような気がしてなりません。ただ、おっしゃる通り、本当はもっと単純なことかも知れないですね。またいつでもお気軽にコメントして下さい。感謝です!!!

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