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Shota Maehara's Blog

『東京物語』試論―「時間」の共有をめぐって

Posted by Shota Maehara : 1月 10, 2010

久しぶりに小津安二郎監督の名作『東京物語』を観る機会があった。その映画に触発されて現代の様々な問題点が浮かび上がってくるような思いがした。それは私自身常日頃感じているテーマとも触れ合う。つまり、現代の人間関係の再構築をするにはどうすればいいのかという難問である。これは多かれ少なかれ現代人が抱える共通した欠陥なのではないだろうか。うつや自殺者は毎年後を絶たず、結婚活動(コンカツ)や離婚活動(リカツ)などが流行語に選ばれたりする昨今、人々が他人と精神的つながりを感じられなくなってきているのではないだろうか。私はここに現代の癒しがたい病を見る思いがするのだ。

『東京物語』は、年老いた夫婦が成長した子供たちに合うために上京する旅を通して、戦後の日本における急速な核家族化の実態を描いている。さらにこれまで信じられてきた「家族愛」の崩壊と再生を繊細な描写で描き出している。物語の筋そのものは極めてシンプルである。平山周吉と平山とみの老夫妻は、東京に生活する子供たちに会いに尾道から上京する。しかしそこで彼らから自分たちは疎外されていると感じる。子供たちはそれぞれ家庭や仕事を持ち自分たちの時間で動いているからだ。彼らは絶えず時間に追われていて、彼らを充分かまってやることができない。そのため熱海の温泉に宿泊させたりする。そしてそこから老夫妻が戻るとその存在を一層疎ましく感じ始める。

ただ一人戦死した次男・昌二の嫁・紀子だけはこの老夫妻に優しく接する。上京中も彼女は仕事を休んで、観光バスで街を案内し、義理の母である平山とみが危篤になって駆け付けた時や亡くなった後も本当の娘以上に身の回りの世話をしてくれる。この映画の中で紀子の存在が失われた家族愛の再生のカギを握っている野は確かである。血を分けた子供に冷たくあしらわれ、その一方で血の繋がっていない他人に親切にされる。この逆説を通して新たな人間関係の構築は可能であることを示し映画は幕を閉じる。

ここで、私たちにとって非常に興味深いのは、なぜこの「平山紀子」(原節子)だけが老夫妻を優しくもてなすことができたのだろうか、という点である。それは単に性格の良し悪しだけに起因する問題だったのであろうか。いや、おそらくそうではあるまい。実は、この映画の謎を紐解くことのできる唯一のキーワードは「時間」である。それは例えば、尾道(田舎)と東京(都会)の時間の流れの対比であり、老夫婦と息子や娘夫婦の時間の流れの対比である。そして、何よりも重要なのは、8年前に戦争で夫を失った「紀子」の時間がその時以来止まったままであるという事実である。ここに紀子だけが田舎から上京した老夫婦に優しく接しえた理由があるように思われる。

紀子は夫・昌二を戦争で失って以来、東京でOLとして働き、一人暮らしをしている。戦後東京では特に、目覚ましい復興を遂げ、人々の意識が変わっていく中で、兄弟中でこの紀子だけが過去との繋がりを持ち続け、8年たった今も部屋に亡くなった主人の写真を飾っている。そのことを老夫婦に指摘される場面がある。老夫婦はこれまで彼女に苦労の駆け通しだったと詫び、これからはもう次男のことは忘れて、もう一度良い人と巡り合って再婚することを勧める。しかし、彼女は「良い人がいればね」と何気なくこの場をやり過ごす。老夫婦は自分たちにこんなに尽くしてくれるあなたならきっと良い話はあるというのだった。

この映画は、時間の観点からいって、三つの共同体に分類することができる。第一は、戦災を逃れてほぼ昔のままの尾道の緩やかな田舎の生活と、第二は戦後急速に変容する東京のせわしない都市生活、そして第三にただ過去のある時点で時間が止まったままの「紀子」に代表される傷ついた者たちの生活である。第一の共同体と第二の共同体の対話は困難に思われたが、第一と第三の共同体は不思議に心を通わせることができる。それはおそらく戦後急速に変容する日本の中で、両者が共に「過去」に属する者であったからであろう。

その意味で、義理の母の平山とみが亡くなった後に交わされる周吉と紀子の会話は印象的である。「あなたにいつまでもそうして独りでいられるとこちらが心苦しくてならない」という義理の父・周吉に対して、彼女ははじめて自分の心情を次のように吐露する。「私はずるいんです。本当はそういつもいつも昌二さんのことばかり思っているわけではないんです。最近は思い出さなくなる日もあるくらい。それにこのまま独りでいたらと思うと不安なんです」と。

さらに尾道で老夫婦と暮らして、小学校教師をしている次女の京子と紀子との間で最後に交わされるセリフは映画を撮った小津監督自身の主張である。自分の実の母に対する兄姉の心無い態度に憤る京子に対して、紀子は言う。「彼らは悪気が合ってそうしているのではない。彼らにはもう彼らの家族があり仕事があり生活があるのだから。皆それに従って生きていかなくてはならないものなの」と。でも「お姉さんは違うじゃない」という京子に対して、「自分もだんだんそうなっていくの。いやでもそれは仕方のないことなの」と紀子は答える。京子はそれに対して「自分はそうなりたくない」とポツリとこぼすのだった。最後に紀子は京子に「あなたも今度きっと東京にいらっしゃい」と言葉をかける。

これら三つの共同体の間の対話とその不可能性を通して小津は、戦後の社会のみならず、いついかなる時代も存在する「孤独」というテーマに向き合おうとする。ただし、その筆致はいかにも小津らしく愛のある眼差しとも呼べるほど温かさを感じる。つまり、観る者の心を癒してくれる力があるかのようだ。

この映画を通して、私は自分自身の心にも年老いた人々や肉親を疎ましく思う心があることを認めぬ訳にはいかなかった。そして、本当の意味で他者と繋がることに恐れを感じているのではないかと針で心をちくちく刺されているような気持にもさせられた。私たち平凡人の心の内に潜む「冷たさ」が私たちの人間関係をいかに自己疎外しているかを再認識させられる。

その一方で、小津は新たな人間関係の構築の可能性をも指し示している。それは複数の時間の共同体の交錯の中でも、紀子のようにそれらをつなぎ合わせ、コミュニケーションを成り立たせていくことは可能であること。インターネットなどのテクノロジーを背景にして、複数の私的な時間の成立が既存の共同体を壊してしまったのであるならば、またそれらの分裂した個々人の時間を多様なチャネル(仕事、趣味、恋愛、社会奉仕など)を通じてふたたび同期させていくことができればまた新たな共同体は生まれ得るのである。

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