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Shota Maehara's Blog

アウシュビッツ以後詩を書くことは野蛮である―アドルノ 『プリズメン』

Posted by Shota Maehara : 11月 15, 2009

……唯物論的に見通しの利く文化は、唯物論的により率直になったのではなく、単に低級になったにすぎない。この文化は、おのれ自身が特殊性になるのにともなって、それがかつて他の特殊性と対立した際もっていた真理の塩をも失った。この文化にその責任を問うたところで、否定されるだけで、単に文化的もったいぶりが確認されるにすぎない。しかし今日では、すべての文化的伝統が、中性化され、しつらえられた文化として、なきに等しいものになっている。ロシア人たちが自分たちはその遺産を相続したと殊勝げに喧伝しているその遺産も、取り返しのつかない過程を通じて、その大半がなくてもいいもの、不用なもの、屑となった。すると次に、文化をこういう屑として扱う大衆文化の荒稼ぎ屋たちが薄笑いしながらそれを私的できることになる。社会がより全体的になれば、それに応じて精神も物象化されてゆき、自力で物象化を振り切ろうとする精神の企ては、ますます逆説的になる。宿命に関する最低の意識でさえ、悪くすると無駄話に堕するおそれがある。文化批判は、文化と野蛮の弁証法の最終段階に直面している。アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である。そしてそのことがまた、今日詩を書くことが不可能になった理由を語り出す認識を浸食する。絶対的物象化は、かつては精神の進歩を自分の一要素として前提したが、いまそれは精神を完全に呑み尽くそうとしている。批判的精神は、自己満足的に世界を観照して自己のもとにとどまっている限り、この絶対的物象化に太刀打ちできない。-テオドール・W・アドルノ(渡辺祐邦・三原弟平訳)「文化批判と社会」、『プリズメン』(ちくま学芸文庫、1996年)。

「根源とは目標である」という保守的に聞こえる命題の中には、「根源の概念は、その静的な在りもしない姿を捨てるべきだ」という考えすらも言い表されている。それは「目標は根源へと還ることである。あるいは<善き自然>という幻想に戻ることである」と言っているのではない。そうではなく、「根源はただ目標に対してのみ与えられる、それは目標から始めて構成される」と言っているのである。この束の間の人生を除いてどこにも根源などありはしない。―アドルノ 『否定弁証法』(作品社、一九九六年)

永遠につづく苦悩は、拷問にあっている者が泣き叫ぶ権利を持っているのと同じ程度には自己を主張する権利を持っている。その点では、「アウシュビッツのあとではもはや詩は書けない」というのは、誤りかもしれない。だが、この問題と較べて文化的度合いは低いかもしれないが、けっして誤った問題でないのは、アウシュビッツのあとではまだ生きることができるかという問題である。偶然に魔手を逃れはしたが、合法的に虐殺されていてもおかしくなかった者は、生きていてよいのかという問題である。彼が生き続けていくためには、冷酷さを必要とする。この冷酷さこそは市民的主観性の根本原理、それがなければアウシュビッツそのものも可能ではなかった市民的主観性の根本原理なのである。それは殺戮を免れた者につきまとう激烈な罪科である。その罪科の報いとして彼は悪夢に襲われる。自分はもはや生きているのではなく、一九四四年にガス室で殺されているのではないか、現在の生活全体は単に想像のなかで営まれているのではないか、つまり二十年前に虐殺された人間の狂った望みから流出した幻想ではないのかという悪夢である。―アドルノ 『否定弁証法』(作品社、四四〇~四一頁)

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