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Shota Maehara's Blog

パウル・ツェランに関するノート―「投壜通信」としての詩

Posted by Shota Maehara : 11月 4, 2009

celan-paul-dt-literaturarchiv-marbach-paris-ca-1960詩は、言葉の一つの現象形態であり、したがってその本質からして対話的である故に、いつかどこかの陸地に、もしかして心の陸地に打ちあげられるかもしれないという、かならずしも希望にみちているとはいえない信念のもとに託された投壜通信といったものなのかもしれません。詩はこうした点でも途上にあります。詩は何かを目指しているのです。―パウル・ツェラン 「ブレーメン文学賞受賞講演」より

マンデリシュタムはそこで詩人とジャーナリストの言葉の違いに言及する。詩人の言葉は誰にも向けられていないのに対し、ジャーナリストのそれはいつも具体的な一定の人々、同時代人や同世代人、隣人に向き合い、また一般社会よりも高いところに立って教え導くというのである。しかし、詩人は卑近な相手は拒むけれども、未知なる人、特定できない遠くの人、後から生まれる読者に賭ける。不可視の、しかしながら存在する対話者を必要とするのである。対話者としては誰もいないけれども誰かいる、という否定と肯定の間に揺れる詩の、浮遊する中間者的あり方をマンデリシュタムは投壜通信のイメージで描き出す。

ひとには誰にも友人がいる。何故詩人は自分にとにかく一番親しい人間である友人を相手として書いてはならないのか。―船員は生きるか死ぬかの時に、自分の名と自分の運命を書いたものを壜に入れて封印し、海中に投げ込む。長い年月がたった後に砂丘を歩いているとき、私はそれを砂の中に見つける。私は手紙を読み、今になって行方不明者の遺志と事件の日時を知る。私にはそうする権利があったのだ。私は他人宛の手紙は開封したことがない。壜の中にあった手紙はその発見者宛だったのである。私は壜を発見した、ということは私が謎の隠れた受取人というわけである。

「僕の才能など取るに足りない、それに僕は有名でもない、/でも僕は生きている―/僕の存在を貴重に思ってくれる/誰かがこの世にいてくれるから。/僕よりはるか未来のひとが僕の詩のなかにそれを/再び見つけ出す、すると僕の魂は―/誰がそれを知りえよう―そのひとの魂と結ばれる。/僕は友人は僕の世代に見つけたが、/読者は未来に見出すだろう。」

バラチンスキーのこの詩を読むと、私はそうした投壜通信を手に入れたような気持ちになる。途方もない原始の力のすべてをそなえた海のはたらきにより、それは私の手に届いたのである。―海がこうして力を貸すことは予定された運命であり、神の摂理がここにはたらいたという感じが発見者の心をとらえる。船員は壜を海中に投げ、バラチンスキーは彼の詩を手放す。両方の出来事にとって表現の動機は二つとも完全に同じで共通する。その手紙は詩と全く同じく、特定の人に向けて出されたものではない。それにもかかわらず両者は受取人をもつ。手紙にとってそれは偶然砂の中に壜を発見する人であり、詩にとっては「未来の読者」である。引用したバラチンスキーの詩句を読んで、例えば思いがけず名を呼ばれたときのように嬉しさと不気味さがまじり合った戦慄が背すじを走らない人がいたら知りたいものだ。―森治 『ツェラーン―人と思想』(清水書院、1996年、157~8頁)

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