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Shota Maehara's Blog

純日本論批判―「純粋さ」というイデオロギー

Posted by Shota Maehara : 10月 28, 2009

amakusashirounohata日本人はよく「純日本人」、「純粋な日本語」などという言い方をする。例えば、日本の作家三島由紀夫は日本の文化を外国の影響から防衛すべく呼びかけた『文化防衛論』を著した。それは日本の愛国の徒に快く響く音色を持っている。

しかし、本当に一国の文化というものが、他からの影響を受けずに今日まで存在しえたのだろうか。もちろん保守主義者は、日本的な美意識や様々なところに日本の日本たる本質を見出すだろうが、その本質すらもがすでに疑わしい。なぜなら、概念や観念で捉まえられた本質というものすらが、差異を排除して成り立っているからである。

では、日本の歴史において、切り捨てられてきた「差異」とは何か。私見では、それはキリスト教(景教)の影響であり、朝鮮の文化的影響(渡来文化)などである。少し調べただけでも、日本の鎌倉仏教には景教(中国におけるキリスト教の呼び名)からの影響を窺わせる要素が多数含まれている。自力本願から他力本願(ひたすら念仏を唱えるだけで救われる)への価値転換、そして親鸞の悪人正機説(「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」)。これらは難解な律法ではなく、「ただキリストの福音を信じる者は救われるという」新約の新しい教えや、「富める者が神の国に入るのは駱駝が針の穴を通るよりも難しい」という思想といかに酷似していることか。

この影響関係の真偽のほどは今は性急に判断すべきでない。しかし、あらゆる時代を通じて、革新的なイノベーションや価値転換が純粋に一つの共同体の内部から自然発生的に生まれたかのように見なすことは果たしてどこまで正しいのだろうか。むしろそれは権力や制度や組織を通じて意図的に隠蔽されたものなのではあるまいか。自分の身辺を考えてみても、優れたアイディアは、自分一人で頭を抱えていても湧いてくるものではない。他人とのふとした会話や出来事が引き金となって、自分の思考がスパークすると考えた方が自然だろう。ならば、あらゆる文化や歴史の根底には世界交通によってできた外部の文化との接触の痕跡が見出されるにちがいない。

かつて評論家の加藤周一は日本文化を「雑種文化」と規定したが、本来雑種でない文化などあり得ない。おそらくキリスト教が仏教その他に与えた影響と同程度に深く、イスラム教や東方文化の影響がキリスト教には流れ込んでいると見るべきだろう。したがって、21世紀の知識人の課題は自国の「純粋さ」を是認することにあるのではなく、あらゆる事物の根底に「多様性」や「異種混交」を再発見していくことにあるではないだろうか。一見美しい「純粋さ」とは実は他者を排除することによって成り立つイデオロギー(ideology)に他ならないからである。

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コメント / トラックバック2件 to “純日本論批判―「純粋さ」というイデオロギー”

  1. そうですねぇ。
    パクって昇華させる特技を持つ人種ですもんね。

    自慢じゃないですが、横浜の人達は相当柔軟に何でも取り入れちゃうし。

    面白い市民性として、100人いたら100人ともバラッバラで、人と同じが大嫌いww
    とにかく老若男女オンリーワンをこよなく追求する人が多いです。

    • akizukiseijin said

      私も以前横浜に4年間住んでいたことがありました。だから、この街には私も特別な思い入れと愛着があります。dbadminさんが仰ることよく分かります。外国の文化の影響が大きく入ってきていることとも何かかかわりがあるんでしょうか。いつもそちらの横浜のグルメについての記事や写真が素敵ですね。またぜひ行ってみたいなと思います。

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