イエスというアポリア―あらゆる価値の価値転換の試み
Posted by Shota Maehara : 10月 28, 2009
人間がもし現代人のように、孤独を弄ばず、孤独を楽しむ演技をしなければ、正直、率直におのれの内面と向きあうならば、その心は必ず、ある存在を求めているのだ。愛に絶望した人間は愛を裏切らぬ存在を求め、自分の悲しみを理解してくれることに望みを失った者は、真の理解者を心の何処かで探しているのだ。それは感傷でも甘えでもなく、他者にたいする人間の条件なのである。
だから人間が続くかぎり、永遠の同伴者が求められる。人間の歴史が続くかぎり、人間は必ず、そのような存在を探し続ける。その切ない願いにイエスは生前もその死後も応えてきたのだ。キリスト教者はその歴史の中で多くの罪を犯したし、キリスト教会も時には過ちに陥ったが、イエスがそれらキリスト教者、キリスト教会を超えて人間に求められ続けたのはそのためなのだ。
原始キリスト教団のみじかい歴史を調べる時、私がぶつかるのは、いかにそれを否定しようと試みても否定できぬイエスのふしぎさと、ふしぎなイエスの存在である。なぜこんな無力だった男が皆から忘れ去られなかったのか。なぜこんな犬のように殺された男が人々の信仰の対象となり、人々の生き方を変えることができたのか。このイエスのふしぎさは、どれほど我々が合理的に解釈しようとしても解決できぬ神秘を持っている。その神秘こそ今度も私の書きえなかった「彼とその弟子の物語」のXなのである。―遠藤周作 『キリストの誕生』(新潮文庫、p.250-1)
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