I am the vine; you are the branches

Shota Maehara's Blog

「静観の生活」(vita contemplativa)―ヘッセ・ノート

Posted by Shota Maehara : 10月 7, 2009

“若さを保つことや善をなすことはやさしい すべての卑劣なことから遠ざかっていることも だが心臓の鼓動が衰えても なお微笑むこと それは学ばれなくてはならない”―ヘルマン・ヘッセ

「そんなとき、好きな仕事や意義のある仕事にもどれる人、愛する人びとのところに、どこかの故郷に帰ることができる人は幸いだ!それができない人、この幻想が壊れてしまった人は、そのあとはじまる寒さを避けてベッドに這い込むか、旅に逃れる。そして漂泊者としてあちこちで、故郷をもち、社会をもち、自分の職業や活動を信じている人びとがどんなふうに働き、どんなふうに努力し苦労しているかを眺める。そして彼らのすべてのよき信仰とすべての努力の上にゆっくりと、こっそりと次の戦争の暗雲が、次の革命の、次の破滅の暗雲がたれこめるのを眺める。それは、怠け者と、信仰をもたぬ者と、失望した者だけにしか見えない。―希望のない楽観主義のかわりに苦い真実へのささやかでこまやかな老人の偏愛を選んだ、年をとってゆく人だけにしか見えない。」(ヘルマン・ヘッセ『人は成熟するにつれて若くなる』、岡田朝雄訳、草思社、一九九五年、二三頁)

「情熱は美しいものである。若い人には情熱がとてもよく似合うことが多い。年配の人には、ユーモアが、微笑みが、深刻に考えないことが、世界をひとつの絵に変えることが、ものごとをまるではかない夕雲のたわむれであるかのように眺めることが、はるかにずっとふさわしい。」(同書、六四頁)

「成熟するにつれて人はますます若くなる。すべての人に当てはまるとはいえないけれど、私の場合はとにかくその通りなのだ。私は自分の少年時代の生活感情を心の底に持ち続けてきたし、私が成人になり、老人になることをいつも一種の喜劇として感じていたからである。」(同書、六五頁)

「青年にとって必要なことは、自分自身を真剣に考えることができることである。老年に必要なことは自分自身を犠牲にできることである。なぜなら、老年には自分以上に真剣に対処すべき何物かがあるからである。私は信仰箇条を表明するのは好きではないが、精神的な生活はこの両極の間で進行し、展開されなくてはならないと確信している。なぜなら、青年の使命と、あこがれと、義務は生成であり、成熟した人間の使命は自我の放棄、あるいはドイツの神秘思想家たちがかつて名づけたように、《自己離脱》(エントヴェールデン)である。しかし、そもそも自己を放棄することができるためには、人間は一人前の人間、つまり独自の個性を完成するための覚醒の苦悩を切り抜けて、成熟した人格を獲得していかなくてはならない。」(同書、九二~三頁)

「過ぎ去ったことにこだわったり、それを模倣したりすることが私たちにとって重要なのではなく、変化に対応できる能力をもって新しいことを体験し、力をつくしてそれに参加することが必要であろう。その限りでは、悲しみは損失に執着するという意味でよいことではなく、真の人生の目的にかなうものではない。」(同書、九六頁)

「私たちがひとつの生活領域に慣れ親しみ くつろぎを覚えるやいなや 衰退の危険がさし迫る 出発と旅の用意のある者のみが 麻痺的な習癖から身を振りほどくことができる おそらく死の時が私たちを若者として 新たな段階に送ってくれるであろう 私たちへの生の呼びかけは決して終わらないだろう さあ 心よ 別れを告げよ 元気を出せ!」(同書、一〇一頁、「段階」より)

「人は高齢になると、過ぎ去った長い生涯を独特の考察の仕方で回顧するものである。私の人生の後半は、劇的で、闘争に満ち、敵が多く、苦難に満ち、最後はあまりにも多くの成功に満ちていた。けれども、このおちつかない半生を切り抜けるための力は、もっと静かだった最初の半生、つまり私が体験することを許されたほとんど四十年になんなんとする平和から生まれたものである。戦争はひとつの試練だといった人がいるけれど、私の経験からすると、人を進歩させ、力を与えるのは平和のみである。」(同書、一〇四~五頁)

「すばらしい魔力、万物が変転するという燃えるように悲しい魔力よ!しかし、それよりもはるかにすばらしいのは、過ぎ去ってしまわぬこと、存在したものが消滅しないこと、それがひそかに生きつづけること、そのひそかな永遠性、それを記憶によみがえらせることができること、たえずくりかえし、それを呼びもどす言葉の中に、生きたまま埋められていることである。」(同書、一〇六頁)

「これは、よく世間で、「子どもっぽくなる」という、あの行動である。これはかなり当たっている。私自身、知らずに、やむをえずたくさんの子どもじみた反応を周囲に向かってしていることを疑わない。それでもそれらは、観察の結果わかったことだが、いつも無意識的に、やむをえず行われるわけではけっしてない。老人によっては、子どもじみたことや、非実用的なことや、割に合わないことや、遊び半分なことなどが、完全に(あるいは半ば?)意識的に、一種の遊びの楽しさでなされることもあるのだ。」(同書、一二七~八頁)

「この世は私たちにもうほとんど恵みを与えてくれない。この世はしばしばただもう喧騒と不安から成り立っているようにしか見えない。けれど草や木はそれでもやはり成長する。たとえいつか地上がすっかりコンクリートの箱で覆われてしまうようなことがあっても、雲のたわむれは相変わらず存在するであろう。そしてあちこちで人間は芸術の助けをかりて神性なものに通じる扉を開けておくであろう。」(同書、一四二頁)

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