I am the vine; you are the branches

Shota Maehara's Blog

「見ること」について―詩人とまなざし

Posted by Shota Maehara : 10月 4, 2009

img_1109503_43852653_0私は街の中で時々眼鏡をはずして歩いてみることがある。それは単に目が疲れるからという肉体的な理由からだけでなく、むしろ相手の顔や目が見えないことを望んであえて眼鏡をはずしてみることがある。私にとって都会の景色や都会の女性は美しいが、何となく人間らしく見えないし、また少し冷たい感じがするからである。男も女も誰もが肩肘を張って風を切って歩いているように見える。それは見栄と偏見でお互いを意識し過ぎているがゆえに互いを精神的に疲れさせてしまう。

これは映画や文学作品で扱われるテーマだが、よく見える目というものがはたして人間を幸福にするのか、不幸にするのかは見定めがたい。例えばジードの『田園交響楽』の盲目の少女ジェルトリュードのように眼が開き、人間がどんな悲しい顔をしているかを知って、絶望し自殺してしまうかもしれない。もしくは高い知能を持つにいたった白痴の青年が現実に苦悩する『アルジャーノに花束を』。これらは知らないということがときに人間の慰めとなりうることを教えてくれる。いわゆる少年時代こそが最も幸福な期間であったという人々の主張にはこうした感慨が関係しているのかもしれない。いずれにしても、時々眼鏡をはずして街中を歩くと、何となくほっとできるという瞬間があることだけは確かだ。

しかし、詩人リルケが教えてくれるように、「見る」ということはすべての始まりである。我々は見るという行為なくしては何物も知ることはできない。他者のみならず、自分をも知ることはできないだろう。これは言ってみれば当たり前のことである。ただこの当たり前のことが実行するにはどれほど難しいことだろう。それは見るということがいわば肉眼を通して、相手の仮面の裏の素顔、心の内を見抜くかの如き精神的行為であるからだ。それは仮面の後ろにもはや素顔がなく、ハッとしてのっぺらぼうの人間が歩いて行く異様な光景を目にする場面に遭遇することも間々あるだろう。詩人は物質的なありふれたものを肉眼を通して見つめ、そこから一つの比喩や形象をつかみだす。それは時に詩人を疲弊させもするが、喜びも与えてくれる。そのようにして日常のありふれた事物に命を与え、生き生きとよみがえらせることができるからだ。

私たち人間は言葉によって世界を理解し、言葉を通して体験を経験化している以上、言葉の牢獄から逃れることはできない。私たちの使う言葉が陳腐化してしまえば、私たちを取り巻く現実世界も腐食する。何となく変わらぬ退屈な日常の繰り返しという倦怠感におそわれる。もしこの文章を読んでいるあなたがそう感じているのなら、まず「見ること」から学び始めなければならない。そして、世界をもう一度新しい言葉で語り直すのだ。そうすればあなたは世界は同じでも見る視点が変わるだけでこんなにも違って見えるのかと思うことだろう。そして自然の美しさにあっと息をのむかもしれない。

その時、あなたは詩の花園の入口に一歩足を踏み入れている。何よりも精神的、肉体的に行き詰った時には、くだらぬ精神療法などよりこのほうがよほど効き目があるはずだ。

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