I am the vine; you are the branches

Shota Maehara's Blog

ポストモダン・ライフスタイル論

Posted by Shota Maehara : 6月 29, 2009

christ_and_the_disciples_at_emmaus_kei

“すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。”―マタイによる福音書第一一章第二八節

現代人の暗黙のスローガンは、まさに「時は金なり」である。この言葉の意味するところは結構深い。つまり、今や時間に関する考え方と貨幣に関する考え方が人々を縛り付けているということだろう。その結果、誰もが忙しいし、また忙しいふりもする。なぜなら、現代の都市生活では完全に何もすることがないことがあたかも罪悪のように感じられる瞬間があるからだ。また金にならないことに時間を使うのは無駄だと多くの大人は刷り込まれ、また子供にもそうした考えを知らず知らずに伝染させてしまってはいないだろうか。

つい2、3年前私は海外から洋書を注文した際、こんな経験をして驚いた。それは大晦日を家族とともに過ごし、元旦を迎えて朝食をとっていると、ペリカン便の配達夫がやってきて本をお届けにあがりましたという。私はびっくりして代金を支払い、本を受け取った。彼はよくこのエリアを中心に配達してくれている優しい感じの中年のおじさんで、「ありがとうございました」と笑顔で言うとまた配達の車に戻っていった。私は欲しかった本が届いた嬉しさと、彼が家族と元旦を一緒に祝う時間を奪ったことに後ろめたさを同時に感じた。便利の裏側で泣いている人がいるかもしれないと思うようになったのはこのときからだ。

また最近仕事で浦和に出かけていた時、駅前の道路で若い女性がチラシを配っていた。私は歩きながらも、彼女の説明が耳に入ってきた。それは駅前にオープンした足のマッサージのリラクゼーションルームのビラ配りだった。確かに今やこんな情景は珍しくもないが、そのとき私は、「癒し」というやや抽象的なサービスが現代人の間で確実な需要を見込める事業として定着していることを思い知った。癒し系サロンなんて一昔前には考えられもしなかった職業だ。でも、なぜ昔の人はそれがなくても少しも困らなかったのだろうか。私たちはこれを進歩と呼べるのだろうかと、こんなことを取り留めもなく考えながら歩き続けた。

確かに、グローバル競争だ、自己責任だと叫ばれて久しいこの時代において時間を無駄にする人間はそれだけで敗者であるかのように扱われる。書店に行けば無駄なく効率的に勉強する方法や、100億稼ぐ仕事術などが平積みにされている。その一方で、悩む力などという滑稽なタイトルの本が飛ぶように売れているという。

しかし、こうしたアンビバレンスな現象を眺めていると、一体人々はどっちに進みたいのかと世の中につっ込みを入れたくなってくる。だってそうだろう。現代社会の中で、お金を儲けようとすれば時間を節約しなければならず、逆に豊かな人生の時間を過ごしたいとすれば、仕事術なんていう本は脇にどけなければならない。近代資本制経済の段階で両方を同時に手にすることは不可能なのだ。まるで自分で自分の生活を苦しくしているようなものだ。カネもなくゆとりもない生活へ人々はズブズブとはまり込んでいるのではないのか。

みんな自分自身のことに掛かり切りになって、周りを見渡す余裕もないように見える。彼らはみな努力することを知っている。でも彼らが知らないのは、適度にうまく力を抜くコツではないのだろうか。私にはそう思えてならない。そして、何より現代の労働条件の変化によって直接的にもたらされたもの、それは「休息」の意味の変容である。人々はこの変化に薄々気づいているが、どうしようもなく満たされない自分がそこにいる。

実は、彼らが「休息」についてまだはっきりと見抜けていないことがある。すなわち、それが身体的な疲れを癒すことであるだけでなく、むしろ心の重荷を取り去るためのものだということである。では、そうした心の癒しは何処で手に入るのだろうか。私はそれがリラクゼーションルームの個室でないことだけは断言できる。なぜなら、孤独や不安を癒す力は、同じパンを食べるという意味のcom -panyの語源にもあるように、仲間と一緒に食事をしたり、語らったりして共有するひと時のなかにあるからだ。言い換えれば、他者と共有する時間のなかに癒しもまた存在する。哲学者のイバン・イリイチもまた現代の都市生活に欠けたものとして「共同のくつろぎ」(conviviality)の重要性を強調している。

このように考えると我々はある逆説に逢着する。それは自分の余った時間を他人のために使う人間の方が、それを自分のためだけに使う人間よりもかえってくつろぎや充実感を受け取るというパラドックスである。一度それを失った人間の方が後でそれをより多く取り戻すことは聖書が何度も強調している真理でもある。経験則からも分かるように、自分のためだけに生きている人間とは案外脆く、馬力も出ないものである。本当に生きている人とは家族のため恋人のため友人のため神のために働き、そこからかえって充足を得ている。

では、我々はいかにしたらこういう生き方ができるのだろうか。今までと違ったライフスタイルを選びとることは可能なのだろうか。もちろん私は可能だと考える。それは自分中心の生き方から、他者中心の生き方へ転換することだ。それは自分を利するためだけに生きるのではなく、すべての他者を自分よりも優れた者として尊重し、彼らのためになることをしようと考えることである。例えば、困った人や弱い人を見つけたら蹴飛ばすのではなく、背中を押してあげられるようになることである。そのような態度の変化は必ず周囲の人たちを明るくするだろう。そして、人間関係を円滑にしてくれ、いつの間にかあなたの存在が共同のくつろぎで満たされたものになると約束しよう。

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中